河出書房『日本生活文化史 5 動乱から秩序化へ』(1974)
の「第一章 農工生産の進展」は、大石慎三郎執筆とあるので、期待して読んでみた。
(小見出しを【】で示す)
【土木技術の進歩】
【耕地面積の増大】
近世初期の話。土木技術の進歩が耕地面積の拡大をもたらしたとする。その背景については特にふれられていない。
【封建小農の自立】
耕地面積が増えたので「封建小農」の自立が可能になったと簡単にふれる。「封建小農」とは「単婚小家族農民」のことという。小農化ということである。
「農業の中心地域を従来の谷戸地帯から平場地帯へと移した」ことを強調。普通の農村風景の誕生ということだろう。
「百姓」の意味について、戦国期は在地小領主の意味だが、江戸時代は「封建小農」の意味に変わったとする。
個人的に史料を読んできた限りでは、それだけでなく、「百姓」の語は、土地を所有して年貢を納める者、という語感があるように思う。農民だけでない。
【農民と石高】
過度な小農化を制限する「分地制限令」によれば、農家1軒で10石(1町歩)が標準だが、実際はそれよりやや少ない農家が多く、「好ましい農民像」が1町歩ということなのだろうとされる。実際は、副業があるので6〜7石の農地でもやっていけると思う。
田と畑の比率は、関東以外では「全石高の三分の一が畑であるというのが幕府の概算である」という。石高を決めるときの基準のような書き方にも読める。「石高の三分の一」であって「面積の三分の一」ではないことに注意して読まねばならない。畑の石高は田の半分だという先生もいたが、そうだとすると、面積比では田と畑は半々になる。
関東では「畑地が圧倒的に多い」。実際の年貢割付を見ると、畑の石高は田の半分よりだいぶ少ない。
【農民と住居】
農民の住居。母屋のことだろうが、上層農民以外では平均25坪。8畳が6つで24坪の計算だが、半分は土間で、馬屋なども中にある。便所は外にあり、肥料の貯蔵所を兼ねる。
庭は、むしろを敷いて稲籾を日に当てて乾燥させるための広さが必要だ。
【村落共同体】
稲作は、潅水が必要なので「完全に経営の独立性を確率しているわけではない」「組織への従属者」ということだが、当たり前のことである。文章の用語が古い感じもあり、だから農民は不自由だと読むのは誤解であろう。村民どうし協力せねば成りあった内ことが少なくないということである。潅水の整備はまた領主の義務でもある。種籾が確保できないのも領主の責任だ。
【封建領主の権力】
村の入口までの潅水は領主の義務だが、実際の工事は農民が行い、「御普請」という。村内での水路の整備は「普請」という。これにより「封建領主と村落から二重の強い規制(支配)を受ける」という表現は大げさである。むしろ、江戸時代の規制とはこの程度のことかとも思えてしまう(これ以外にもあるにはあるだろう)。
「農民の生産および生活の場としての集合体(自然村落)」を領主はそのまま「支配の末端にくみいれた」とされる。「そのまま」というのは「自然村落のまま」ということ。
【農耕技術の進歩】
単位あたりの収穫量を増やす方向で改良された
【鉱山業】その他
林業について。近世初期の検地では、山林原野は幕府のものという見解だとのこと。一定以上の樹木も領主が掌握する。これらは、明治初期の上地令で、国有林となり、見解ではなく法的に確定した。このとき、原野でない山林、神社所有地なども多く新政府の権利が確定したが、山地では西日本で私有林となったものが多い。これは討幕派大名の領地に変っていたためだろうか不明。

菊地利夫著『新田開発』至文堂 1963
近世の新田開発についての、さまざまな角度からの概説。
ぱらぱらと拾い読みしたが、新発見などあり。

田畑の年貢の基準高となる石高を決めることを「石盛り」というが、江戸時代の平均(中田なら1石)よりもかなり高いときは「かぶせ盛り」があるとのこと。それにはさまざまの特殊事情があるという。
「かぶせ盛り」の用語は初めて知ったのだが、たぶんそういうことだだろうと思っていた例はいくつか知っていた。その例の1つは、国定忠次の出た上州国定村について、畑の年貢が永140文ほどで、こちらの永96文よりだいぶ高いのは、養蚕が盛んな地域で現金収入が多いことが見越されて高いのだろうと思った。もう1つは武州の畑作地帯に僅かの田があり、年貢は5斗を越えていたのは、おそらく自然の湧き水が形成した沼などを田としたもので、土地が肥沃で水も良質ということではないかと思った。おそらくそれで間違いないことは、この本に書かれている例から、わかった。

新しい新田では、農民が開墾したものなら、一定期間は年貢が免除ないし格安になるのだが、逆に高い例もある。これは、官営の新田を、格安で農民に払い下げたため、開墾費用の元をとるために高めの年貢となるそうである。
年貢を高くした事情の中には、検地帳に記された田畑の面積とは違い、実測面積が2倍くらいになる例もあったとのこと。計測に使った縄が延びていたということから「縄延」という。新田開発時の減免措置の1つとして、年貢を減らすのではなく、縄延という方法をとったが、年月がたったので少し上げたということかもしれない。
「縄延」は、略して「延び」と言い、現代でも使われる言葉である。宅地にしろ田畑にしろ、実際の面積は登記面積よりも多いのが普通である。明治のころは、民間の測量士を育成してかなり正確な地図などを作らせもしたが、田畑についてはどの程度の延びを認めたであろうか。江戸時代の検地帳に1反と書かれた田畑は、やはり1反なのではないかと思うが、当地では三角測量の計算図などが大量に残されているので、近世初期の延びよりは実際に近かったようにも思える。明治政府の役人が測量したのではトラブルが起こりやすいと見たためなのかどうか、とにかく民間の農民の一人がやりかたを学んで測量した例が多いと思う。昭和になると、田では耕地整理などがたびたび行われ、今は実測面積にかなり近いのではないかと思う。畑は市街化などで区画整理がなければ、明治のままだろう。江戸時代の延びの平均がどれくらいだったかは、わからない。

江戸時代の1反当たりの米の収穫量について、推定する試みがある。昭和と比較して明治はこれだけ少ないので、江戸時代はもっと少ないだろうという想像である。しかし、昭和の1反と江戸時代の1反では、実際は同じ面積ではないのである。したがって、単純な想像よりは、江戸時代の収穫高は多かったわけである。
司馬遼太郎の対談集『土地と日本人』によると、国土の大半を占める山林について、民有林の所有者が誰で面積がどれくらいなのかは闇の中にあるらしい。

さて、この本の「さまざまな角度」とは、土木技術、経済史、農政史などである。環境学や人口学の観点からのものを読みたかったが、1963年という時代では、そこまでは望めないのかもしれない。その理由で拾い読みになった。
環境学とは、大石大三郎著『江戸時代』で、江戸時代初期の新田開発により、森林が過剰に開発されて洪水が多発し、新田開発を自粛する政令が出されたことなどについてである。
『新田開発』によると、江戸時代初期の畑作地帯の新田開発の例では、1軒あたり5町歩を基準にしたそうで、ただし畑には堆肥が必要なので、畑5町歩のうち半分は実際は山林で腐葉土溜めていたとのことである。江戸中期移行では、1軒で1.7町歩となり、全て畑にしないと世間並みの収入にはならないそうだ。肥料は金銭で購入するのが近代的なやりかたなのだろう。しかし腐葉土のための山林を開発するのは、自然破壊になるかもしれず、そういう研究の本を読んでみたいと思った。

楜澤能生『農地を守るとはどういうことか 家族農業と農地制度』(農文協)
という本に、明治以後の農地制度について、たいへん勉強になることが書かれてあった。

ただし、江戸時代の認識について、少し問題があるかもしれない。
「今まで領主にいつ何時取り上げられるかわからなかった農民の土地所持」16p
などという文は、西洋史の「封建制土地制度」の解説文そのままのように思える。
日本では近世初期の検地によって近世的土地所有は確立したとする学者が多くなっている。

とにかく、いつ取り上げられるかわからない土地が、農民自身のものになり、近代的土地所有権が与えられたのが、地租改正の第一の効果だと著者はいう。第二の効果は、農地売買が完全に自由になり、たとえ農業従事者でなくとも新地主の土地についてのあらゆる権利が確立したことだという。
しかしこの「第一の効果」とされるものに疑問符がつけば、第二の効果しかなかったことになる。近世的土地所有は存在したのだから、近代的土地所有権になって加わったのは、農地を自由に売れるということだけになる。第一第二の他には、税の中央集権化を完成させたことだろうか。

同時期に、直接に農地ではない土地、農業資源や生活資源であった村持ちの山林が、一方的に国有化ないし一部の地主所有とされたことは、大きなマイナスの効果となった。この本の例では、岩手県で山林が民有化されて地主との問題になった例があげられているが、東北地方では国有林となった村持ちの山林が、西日本と比較して異常に多かった。官軍に逆らったためである。

明治22年に来日したアメリカの法学者 ウィグモアナが、民法等の制定当時の日本について書いていることが同書に引用されている。

「日本固有法の権威と称される学者にしても、太政官符や封建法典の研究には全力を注ぐが、人民の間での婚姻・養子・相続・質・小作・寄託、仲立・有価証券等の慣習法には全然興味を示さない。これは、全国3000万人、全人口の16分の15に上る農工商の庶民階級に対し、教養ある階級の抱く強烈な軽侮の念にもとづく。それでは若い世代の法学者はどうかといえば、その見込みはさらに一層薄い。」(ウィグモアナ)

「伝統的慣習的権利は、当時日本の法学の世界では古いもの、低級のものと蔑視され、商品取引を前提とした所有権の観念性こそ高尚で高級なものだとする意識が支配した。
……
若い層も西洋法は熱心に学ぶが、祖国の法は問題外とする」(楜澤)

庶民への軽侮の念、そのように異国の法学者の目には写ったのだろう。
しかし誰のための学問なのだろうか。あえて情状を酌量すれば、所有権の観念性の話は、どこか禅問答のようなところがある。通俗の感情論とは違う結論が出るところなどは、それなりの無常観をかもしだし、論理の遊戯性もある、ということも、当時の知識層に好まれたのかもしれない。
知識層がこんな人たちばかりでは、人民の中から、「古今集はくだらぬ集にて候」と言いたくなるリアリストも出るだろう。リアリストは古典を無視し、支配層や知識層は庶民の古典を無視する。歴史を無視することについては共通している。そしてどちらも19世紀の西洋で主流だった自然主義をよく学んでいるのも同じなのかもしれない。
明治の学問とは、こんなものだったのだろうかというと、確かにそのようなものが主流だったのだろう。

やがて、庶民の古典は、柳田國男などによって見直されるようになる。
歴史学の分野で、中世史の藤木久などが、その著書の冒頭を柳田國男の引用で始めるのも、意味のあることであろう。近世史もそうあるべきである。

「婚姻・養子・相続・質・小作・寄託、仲立・有価証券等の慣習法」(前出)については、近世の古文書を読んだときに、現代とは微妙に違うものが、ある程度は見えてくるものである。文書は、日常生活とは異なる事件が起きたときに残されることが多いと思うが、そのような文書からそのときの人々の行動などをきっちり観察すれば、当時の慣習なども具体的に見えてくる。「権威と称される学者」たちが無関心だったこの領域について、些細なことでも小さな発見を積み重ねてゆくしかないようである。「結婚と持参金」で書いたことも些細なことではあるが。
(小作争議や戦後の農地改革については次回)


我々父石井宇右衛門と申、
青山因幡守方に知行
弐百五拾石給罷有候。因幡守
大坂御城代相勤被申候時分
私共親も大坂に相詰罷有
申処に、此水之助其時分は
赤堀源五右衛門と申候、源五右衛門
親遊閑と申、江州大津に
浪人にて居申候。此遊閑と
私共親宇右衛門と由緒有之故、
源五右衛門事を頼越申に付、
則かくまい置、色々不便を
加へ、武芸抔はげませ
此者身代の事を致苦労
に居申処に、其時分源五右衛門
儀、方々と鑓の師を致廻り
申に付、父宇右衛門申候は、其方
の鑓にて師致の事 無心元
候、今少致稽古 其上に
師いたし候はば尤の由、申聞候得ば
源五右衛門却て致腹立、左様に
無心元思召候はば先仕相見
申度由 望候故、無是非
仕相仕候。源五右衛門は寸鑓の
竹刀にて、父宇右衛門は木刀にて


仕相、何の手もなく源五右衛門
鑓に入つき 少も不為働
仕負申候て、又異見申。
其分にて事過候得キ
其後源五右衛門弟子一両
人宛も無承之申候故か、御面目
なく存候故、深く宇右衛門を
恨、夜中他所へ引罷帰
申所をくらき所より鑓にて
言葉もかけずつき申候。
宇右衛門鑓をたぐり申候
得共、{日}来の働にをくれ候哉、
つき捨にいたし 迯のき申候。
其時分私共兄兵左衛門、
因幡守近習相勤、泊番にて
居合不申候。尤我々年五歳
二歳の時分故 落のばし
申候。其節源五右衛門書置候は、
宇右衛門妻致病死 無之に付
縁組取組仕 京より呼寄せ
申筈に仲人致候處に宇右衛門
分別替り 変改仕 先様へ
申訳無之故 如是致置候
抔と書置申候。定て御家にても
左様の申慣にて可有之候。


夫より兄兵左衛門 因幡守より
暇取、ねらひ廻り候得ども
深隠行方知れ不申に付、
右の遊閑を討候はば 無是非
行合可申と存、私共兄
遊閑を江州大津に討
捨申候。夫より・に相ねらひに
成申候。八ヶ年過候て於美濃に
兄由緒の者有之様・滞
在仕候処を、源五右衛門承之
彼宅へ忍入 後よりだまし
切に仕候。兄ぬきあわせ
源五右衛門がももを突候得共
深手負終に討れ申候。
夫より此様子を以御家へ
被召抱、御城内に被差置、
町々御領分の在方迄
彼者かとふと仕申様に
被 仰付候事、千万無是
非義にて御座候。其後我々
兄弟歳立仕寄ねらひ
廻り候得共、堅密の御かこ
い きび敷、或は商人非人
の躰にも身をなし爰かしこ
はいかい致候といへども、



終に不得折を 甲斐なく
して、漸々四五年以前より
一人は御家中の面々へ渡
並の草履取に奉公人と
成、深く包心掛候得ども、
今一人兄源蔵一所に難
成。漸々今年迄相待一
所に罷成、兄弟共に只今
年来の遂本望、雪会
稽の恥 候者也。愚筆故
有増 如斯御座候。以上

巳五月日 石井源蔵
       吉時 判
     石井半蔵
       時定 判
板倉周防守様
 御家老中
    御披見

尤竪・・水之助
死骸袴腰に結付け
立退候由

元禄14年に起こった石井兄弟の仇討は「亀山の仇討ち(wikipedia)」ともいう。
世に仇討といっても、忠臣蔵では浅野内匠頭は殺されたわけではなく、その他、典型的な必要条件を満たす仇討は意外に少ないのだそうだが、亀山の仇討はそうではない。
文書は、仇討を遂げたあとの始末書のようなもので、庶民はこれを書き写したものを、ゴシップを読むように回し読みしていたようで、このような状態で残っている。
(ただし虫食が酷い部分は、研究書を参考に修正してある。)

横浜市歴史博物館の企画展のパンフレット『絵図・古文書で探る村と名主』は、
武蔵国久良岐郡上大岡村、今の横浜市南部のあたりの村の古文書についてのもの。
村の絵図面や地図が多数収録され、江戸後期のもの3点、明治のものが約10点、数が多いので、展示のときはインパクトがありそうだ、

文書に関しては5つに分類されているので、分類法などを考えるための参考に、列挙する。

(1) 領主の支配と村
「支配」という言葉が好きな人が多いのかもしれないが、そのようにやるなら明治や現代文書でもやらねばならないので、当ブログはやらない。この分類(1)の内容は、
「御触書」「高札」「御条目」などの写し。「五人組書上げ帳」。鉄砲取締りの文書。高札の現物は明治初頭のもの。
上からのお達し文書は、明治時代よりは比較にならないほど少ない時代ではある。
「村高家数人別書上帳」は求めに応じて作られる村の概要。「宗門人別帳」は恒例のもの。一方的なお達し文書とは違う。

(2) 検地と年貢
「文禄の検地帳」があるのは珍しいか。他は「年貢可納割付」「年貢皆済目録」など。他村との入会である秣場の野銭に関する文書。


(3) 社寺
「社寺名前書上帳」「同什物器財書上帳」などは明治初年。宮普請や講中の寄付帳。
名主家が寺へ寄付したときの寺の受取。分類(5)でないのはページ構成の関係か。

(4)村の出来事
「儀定連印帳」各種。川普請、水利関係。〈村方騒動〉と編者が名付けているもの。家督證文。
侘入證文は、口頭注意でなく證文を書かせることが多かった。今のようになあなあでやって後々曖昧になりにくいので良いと思う。声だけは大きい者が後で復活するのも多少は防げるかもしれない。

(5) 名主北見家
名主家の、名主任命、苗字帯刀、給人格。遺言状。什物などには箱書がある。



  覚
一金百五拾疋
右の通御代参御初穂
目出度 神納仕候
以上
 榛名山谷之坊改
   吉田祐太夫 (印)
巳三月晦日
原之郷村
 御代参 宇兵衛様

榛名山は、水の神、農業の守護神として広く信仰された。温泉などもある。
代参者が納めた初穂料の領収書のようなものであるが、人数分のおふだが授与されたものと思われる。
旧榛名山の御師は谷之坊を名のっていたが、「谷之坊改 吉田」と苗字が記され、明治の御一新の直後のものか。
巳年とあるので、明治二年が巳年である。



「日本第一 大霊験 熊野宮神牘(しんとく)
 武州藤沢 惣社神主 」
と書かれ、熊野の神使である多数の烏の絵がある。
「おふだ」である。

江戸時代の人々は、広く各地に足を運び、道中で著名な神社仏閣には参拝し、おしるしを授かったということだろう。
武州藤沢とは、今の埼玉県入間市下藤沢のあたりで、その地には今も 熊野神社 という神社があるようだ。

余談だが、戦国の武将、太田道潅が戦ったという「藤沢の役(藤沢の戦)」は、川越城からも遠くないこの地の出来事なのではなかろうかと、思っている。吉田東伍は地名辞書で、深谷市南部の人見ヶ原のあたりだというが、その付近を藤沢村と言ったのは明治中期以後で古い地名ではないとのことである。

2、古文書のテキスト文書化

古文書の画像ファイルが増えてゆくと、同時に、読み解いた文書ファイルも増えてゆくことになる。

文書ファイルの形式は、テキストファイル、または馴染んだワープロ文書ということになるだろう。テキストファイルは、MS-DOS時代からのシフトJIS形式でよい。

現在はパソコンで数万の漢字の使用も不可能ではないが、かな漢字変換で気軽に扱えるわけではない。かな漢字変換のことを考えると、シフトJISで定められた文字と記号のみを使うことになる。

漢字については、原則として、「本字」ではなく、現代の略字体を使う。古文書に書かれた漢字も、略字に置き換えることになる。
個人の趣味により、例外は設けられる。証文ではなく證文。武芸ではなく武藝、など。元号の慶應だけは書きたいとか、シフトJISでは、横の本字はないが、濱ならあり、1つだけでも使いたい、など。こういう例外を除けば、昭和後半以後の市町村史資料編の類では本字が(全体に)使われたものはまだ見たことがない。
「候」は、「ゝ」「イト」どう書かれてあっても「候」。
漢数字の壱・弐等は、一・二等にすれば即座に暗算で計算できて内容を把握しやすい場合には、そうするのが良い。字形にばかり忠実で、金額の高い低いの評価もわからないのでは、あまり頭を使ったことにはなるまい。
文書ファイルは他のパソコン等で表示させても同じ文字が表示されなければならず、機種依存文字は使用しない。

変体仮名、万葉仮名は、すべて「ひらがな」で。
助詞の「へ」にあたる「江」は、「え」ではなく「へ」。「より」を1字に書いたようなのも「より」の2字。
そのほかの仮名遣は、原則は、原文通り。近世文学研究者のなかには、正統な歴史的仮名遣に直してしまう人もあるが、村の文書では文学的なものは少ない。俳句や和歌などは直しても良いかもしれない。

句読点、引用符「」、書籍名『』などの記号の付加は、個人の趣味の問題。並列表記の「・」の付加はあまり感心しない。

日本の筆書き文書は、句読点がなくとも、読みづらいとは限らないのは、文字の大小を使い分けたり、微妙に文字の間隔を調整しながら書くなどするためである。したがって、空白の適宜な挿入は、重要なことだと思う。

判読不明文字を表す記号。
印刷本などでは「□」がよく使われたが、パソコンの画面上では、口(くち)やロ(ろ)と区別しにくい。某大学のHPで近世文学関連のページを見たら、教授ごとに自由な記号を使っていたが、統一しなくともそれとなくわかるものである。ある研究者は「★」が目立つので良いという。虫食などで不明文字が連続する場合は、・・・・・・・・・・・・・・・・・とすれば入力も1秒以内で済むので良いと思う。確定できない字を{ }で括っておいても良い。後で修正を加える必要があるので、本人がすぐに探せないと具合が悪い。

画像ファイルとの関連づけのしかたなどについては、別に書く。

パソコンを利用した古文書管理について。
1、古文書のデジタル画像化(撮影時の状態を永久保存。頻繁な閲覧による劣化を防ぐなど)
2、読んだ内容のテキスト化(検索が容易になるなど)
3、それらによるデータベースの構築。印刷や複製。
以上については、個人でできる範囲についても考えなければならない。

1、古文書のデジタル画像化

撮影時の状態のまま永久保存し、頻繁な閲覧等による原本の劣化を防ぐ。万一予期せぬ現物の損壊を被っても保存データは残る。手軽に画面に表示させることができる。
既に公立図書館などではかなり進んでいる。

スキャナとカメラ撮影の2つの方法がある。
カメラ撮影では、連続撮影は早いかもしれないが、カメラの固定設置そのほか、撮影技術を要する。

スキャナでは、撮影技術がなくても、精細な画像を得ることが可能である。
EPSON社あたりのA3サイズ対応で高速な機種を選ぶことになる(ES-7000など)。
A3でも不足の場合もあるが、例えば奉書サイズで紙の周囲余白を含めない文字部分だけならA3に収まることが多い。
(格安品で、読取りは標準的なスピードでも、次の読取り開始までに大変な時間がかかるものがある。)

画像の解像度の問題。300dpi(1インチ300ピクセル)でできれば良いが、スキャナするのに時間がかかる。
個人の作業では、98dpi(半紙の330mmが約1280ピクセル)でも十分で、細かい字がある場合のみ解像度を上げる方法もある。

保存ファイル形式 jpeg形式で保存。ファイル名の一例
 正徳_4_10b-01.jpg
正徳4年10月の日付の文書で、同月の文書の2つめなので「b」を付加。「-01」は分割撮影された長い文書の1つめの画像の意味。
フォルダ名を「数字+元号」とすればフォルダは数字順にソートされ、その中にファイルを入れる。


画像管理ソフト VIX の表示例。「コメント」を表示したもの。
このコメントは外部ファイルからの一括入力が可能。/ | などは、csvファイルの","から置換した区切記号である。

画像ファイルの蓄積と同時に、文書目録が作られてゆく。
画像管理ソフト上でのコメントなどの詳細な項目表示が、文書目録そのものであるような、そのような画像管理ソフトが望ましいのだが・・・。



  覚
一金七両二分 太々神楽料
一金二百疋  御神馬料
一金 百疋  御留守居
一青銅五十疋 御神参目付
一同 三十疋 供僧
一同 三十匹 御宮詰
一鳥目二十疋 御供世話人
一同 四十疋 下部五人
 右の通慥致拝手候成
    白雲山御宮
   寅八月廿八日
     当番 (印)
  太々講衆中

白雲山御宮とは今の群馬県の妙義神社のことであるらしい。
太々神楽料の金額ほか明細と、受領した意味が書かれ、当番の押印がある。
「七両二分」は高額に見えるが、講中の人数が多かったのだろうか。
「寅」とはいつの寅年か。慶応二年(1866)かもしれないが、その年かそれに近い寅の年ではなかろうかと思う。
「疋」という金銭の単位については、事典などの説明が全く当てはまらない例もあるようだ。
「供僧、御宮詰」などなどは、民間なら奉公人に相当する人たちと思われ、多数の人たちへ心付けのようなものを納めたようだ。
商家などの奉公人も、定められた給金のほかに、心付け(チップ)があった。


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