化猫の次第

2018.05.08 Tuesday◇古文書〜その他Edit
『講座日本風俗史第一巻』(雄山閣)に掲載の「瓦版」を読んでみる。
(仮名遣ひ等を改めた)。

化猫の次第

音羽辺 化猫の次第
凡そ獣類の中にても寝食を同じうするは猫のみなれど、
又、年たけぬれば、わざはひをもなす事、古来よりためし多し。
爰に、音羽辺なる、さる御やしきにて、五月二十日頃の事とかや。
いづくよりかは、一疋の大猫来り、御愛子の枕近く立より、
はじめの程はたはむれ、くるひけるに、やがて耳逆だち、
口ひらき、眼するどににらみ、喰ひころさん斗りゆゑ、
何某公、是を追ひちらし、長刀にて追ひまはし、一太刀あびせけるに、
庭の松が枝にのぼり、血汐流れ候ゆゑ、其の生躰(正体)を見届けんとするに、
一向にかげかたち見えず、山の奥へ逃げさりしと見えけり。

……読んで見て、どうといふことはないのだが、
結局この化け猫は、危害を与へることもなく、聞く人に恐怖心を植ゑつけて、影も形も見えなくなった。
飼猫が人と寝食をともにすることは、この時代からあったことはわかる。
「原寸大」といふのは、A5判見開き(A4)が、ほぼ「瓦版」の紙の大きさといふこと。

近世の特定の村の古文書のうち、村人どうしの文書を読むときに、人物の特定などができると、「社会生活史」的な理解が深まる。
人物の特定とは、複数の文書に登場する同名の者が同じ人物かどうか、その親子関係、家族・親類関係、苗字、副業、資産や村役などである。

明治五年の新戸籍。その写しがあれば、「父○兵衛文化○年生れ」などとあれば、幕末の○兵衛との関係が想定でき、宗門人別帳を遡ってゆくこともできる。同名なら同一人物の可能性が高いが、親子2人の名が同じなら確実でなる。天保のころの農間渡世(副業)調べの記録と、明治の戸籍が同定できれば、明治の住所を見て、やはり街道脇だったかとわかる。幕末の弥左衛門と明治の弥惣八が同一人物らしいとか。重要な家は、墓誌を訪ねて先祖の名を確認できるし、現代に伝わる屋号も重要である。
連名帳などの並び順は、現代の回覧板のように、無駄のない並びのものがある。事前に半分ほど家が特定できてれば、並び順を見てほとんどの家を特定できることもある。
明治五年以後は、神社や寺の寄付名簿を辿れる。寄付名簿は石に彫ってあることもあり、金額の多い家はそれなりの家である。

それぞれの家系図のようなものもある程度は作れるようになるかもしれないが、
問題なのは、家がわかっていると、トラブルなどに関する古文書を、論文に添えて公表するのに躊躇してしまうことである。第三者に見てもらって、判断をゆだねる方法もある。

風流都々一

2017.07.31 Monday◇古文書〜手習Edit
明治のごく初年のものと思われる「風流都々一」なるメモ書を読んでみた。
庶民文芸の一のようだ。遊里などでの特殊な用語の意味が難しい。


風流都々一

としのくれよりまたして おいて、ふらしてたのしむ春の雨
 (「ふる」は、女が「ふる」ことをかけるのだろう)

おまい梅ならわしゃ鴬よ 花が仲人で いんむすび
(関東では「え」を「い」と訛るので「いんむすび」とは「えんむすび」のことだろう)

ひらきかかりし あやめのつぼみ 水あげすまして 床の前
 (「水揚げ」は、遊里用語)

ゆこかかひろと若いしたちが しあんしながら格子前
 (行こか帰ろと若い衆たちが、思案しながら。格子は遊郭の格子窓。)

かわずあがれば柳の雫 ちょと ぬれたるいけのはし
 (蛙と「買わず」をかけるのだろう。「あがる」もたぶん遊里用語)

水にまかせたあやめでさいも すいた心で花がさく
 (「風まかせ」という言葉もあるが、気楽というより、自分の意志で動けない不自由さをいうようだ)

三国一夜の白さけ娘 うつくしいぞや不二の花
 (「白さけ」は「白酒」と何かをかけたものか、不明。藤と富士。富士山を「三国一」という、富士講流行の背景が見えるので、明治初期のものと見られる)

蚕さなかによめごのさわぎ もらわざなるまいねた子でも
 (「蚕が寝る」と表現するような、養蚕の上でのあまり良くない状態があるのかもしれない。)

八兵衛女としらずにしたら ぬいてびっくり蕗のとう
 (八兵衛は(特に下総船橋あたりの)下級遊女。「蕗のとう」は難しい)

八十八三に別れて松霧(霜?)唐崎の 日毎なみだに夜の雨
 (「唐崎の夜雨」は近江八景の一つ。上の句の読み方が不明。通常の七七七五ではないのかもしれない。「八十八夜の別れ霜、名残の霜」などの慣用句があるが……。)




江戸時代の秩父札所案内絵図。
村の名や山の名はあるが、寺の名前はなく。一から三十四までの番号と距離のみ。
十五番の少林寺の北西に鳥居の絵があり「妙見宮」とあるのが秩父神社。神社の東に今は秩父鉄道の秩父駅がある。妙見宮の境内は当時相当に広かったが、明治初年に政府に上地された。
盆地の中央を貫く街道は、今の旧道で、「しなの くまがへ(くまがい)道」とある。

これはちょうど鳩山政権のころのある古文書勉強会のテキストとして使ったとき、そんなタイトルをつけた。
その文書は、天保二年十月のもので、内容は、知行所各村の村役人らが、知行所の財政改革案、とりわけ人件費の削減について提案したもの。
保存文書は、かなり急いで写したとみえて、読みづらい文字だが、読んで見た。

  乍恐以口上書奉申上候
一 来辰年従五ヶ年間 御省略御仕法の趣
 逸々奉承?候?事
一 御家中御人払被仰付 御知行所村役人
共の内にて在府仕御用役御給人御侍等迄奉賄
御指配御給金頂戴不仕にて?知申儀存候
并御門番兼御仲間二人にて為御間合度存候但し
御給金は頂申度候事
一 御稽古御供の義は御侍にて兼帯仕候て相勤
 申義の事
一 御女中の義は御膳焚一人御茶の間一人にて
御間に合せ度奉存事
右の通り御仕法に被遊候へば御給金二十
二両二分 御扶持米五人扶持此?一ヶ年に
九石相減じ候様に奉存候 猶御尋の義
御座候はば口上にて乍恐可奉申上候 已上
 天保二卯年十月  御知行所
・役人
武(州 村々)
総(州 村々) 印

内容をまとめると、
一、旗本家で5か年をかけて財政改革に取り組む意向である
一、御家中の人払い、つまり家来や使用人の人員削減をする。
 村役人の中から上京して代ってその仕事に仕える者は給金は頂戴しない。
 御用役、御給人、御侍まで削減の対象に考えているらしい。
 門番を兼ねる仲間(ちゅうげん)は二人とし、給金は払う。
一、殿様や若様の武道の稽古には、お供は必要である(中小姓の仕事)。これは省略できない。
一、女中は二人、台所に一人、茶の間に一人。
(奥様付きの腰元は、私的なものでもあり、削減の対象外とも解釈できる)。
そして、このようにすれば、人件費二十二両一分、米九石が節約できる。
・・・というような内容であろう。

実際にはどう改革されたであろうか。
天保八年と十一年の旗本家賄帳なる文書があり、これは村役人が財政を切り盛りした詳細な支出報告である。
給金は、各人の年俸の半額が3月に支給され、残りを年末と秋9月の2回に分けて支給。そのうちの3月の支払い明細である。

 天保八年三月 御給金渡
三両二分 小笹守
三両   堀田惣左衛門
二両   御中小姓
一両二分 御膳焚
一両一分 御茶之間
一両   御腰元
五両二分 御仲間四人
一両   御乳母
〆金十八両三分也

 ※ 小笹と堀田は、「御用役、御給人」にあたる人である。
 次に、3年後の帳面。

天保十一年三月 御給金渡
三両二分 小笹守
二両   御中小姓
一両一分 御茶之間
一両   御腰元
一両二分 御膳焚
四両二朱 御仲間三人
〆金十三両一分二朱也

堀田惣左衛門(3両)がない。仲間一人(1両1分2朱)減、乳母(1両)はなし。

乳母は、たまたま必要でなくなったのかもしれないが、仲間は一人減っている。
用人一人(堀田)減は大きい。
地頭所からの通達文書を見ると、従来は二人の署名があったが、天保九年より、堀田の名は消えて、御賄方・御蔵元・小笹の3人連署となった。そのうち御賄方・御蔵元の2人は知行所村役人である。文書の通達先の村の役人が、この二役のうちに該当するときは、当然、通達主には名を連ねない。したがって村役人2人が必要となるわけだろう。
堀田は天保9年に職を解かれたことになるが、武士を解雇するのは大変なことかもしれない。しかし、天保8〜9年に地頭所が商人から借金した證文が大量に名主家に存するので、その借金を村で肩代わりすることによって、村々の提案が承諾され、人件費削減は実行されたようだ。
(ちなみに仲間一人1両1分2朱は、年間では2両3分。村の名主家の奉公人でも3両は貰っている)

どの旗本家でもこのようなことになると、江戸の町には浪人があふれ、治安も悪くなる。
しかしこの改革は失敗に終った。
天保13年、給人格の一人が、年貢米を金納するための計算をして知行所全8ヶ村へ通知したときの金額にミスがあり、ある村から指摘された。その人は武士道に撤するかのように名主を辞し、その子も同様。もう一人の給人格の名主(わが先祖)も隠居して伜に家督を譲り、以後この役につくものが出なかった。
そして翌年から給人については二人に戻った。

昨年10月、「借金するなら姉妹から」で書いたことは、何ということもないように見えるかもしれないが、重要なことだと思った。

名主が急な村用などのために借金をするとき、とりあえず親類をあたることが多いが、親類のうち姉妹の嫁ぎ先からの借金が多いのは、結婚の際の持参金の存在を傍証するものである、というような内容である。

最近、網野善彦・宮田登対談集『歴史の中で語られてこなかったこと』を再読し始めたら、
16世紀に来日したフロイスの記録によると、「日本では夫と妻が別々に財産を持っている。時には、妻は夫に高利で金を貸す」と書かれ、女性たちには養蚕や機織りの現金収入などがあり、女性独自の財産があったことは間違いないが、研究はこれからだとは、両氏の対談内容。

昨年10月のブログでは、持参金のことしか書かなかったが、養蚕や機織りの収入のことを付け加えなければならない。こうした現金収入は、今までは主婦のへそくりとして歴史家はほとんど無視してきたが、男性主体の表経済に匹敵するくらいの裏経済が存在したのではないかというのが両氏の認識である。手元の史料によっても、個人ではなく、一村に対して融資をするほどの高額のへそくりないし動産が一人の主婦にあったということがわかるわけである。

とはいえ、村の古文書から名主の親類関係を調べるのは、部外者が数日調べたくらいでは容易ではないかもしれない。今回の親類は、伊勢参宮の同行記録から親類と判明したものだった。

養蚕についてだが、宮本常一編纂の平凡社『日本残酷物語』を通読中に、江戸時代には日本の養蚕はかなりの生産高があったというくだりを読んだことがある。それによると、安政×年には○○だけの輸出量だったのだから、少なくとも安政×年以前には養蚕は相当に普及していたのだという程度のことしか書かれず、安政×年の資料しかないのだろうかと不審に思ったものである。しかし諸国生産高一覧のような資料は、本当にないのだろう。江戸時代の養蚕の生産高がわからないのは、年貢などの男性経済とは別次元のものに属するからということになる。

この対談集で、蚕が脱皮して美しい繭で自らを包みさらに脱皮してゆく姿は、少女から女性へ変身する姿の反映だとコメントしたのは宮田氏のほうだったと思うが、昔話で、機を織っている姿を見てはいけないという伝承は、経済的にも男は口出ししてはいけないことにつながるのかもしれない。
それらの禁忌は、水辺に棚を設けて、その上で神に着せる布を織りながら神の来訪を待つ棚機女(たなばたつめ)の、神話時代から続いていた聖なる話の一部なのかもしれない。

近世的家族の成立史の問題と、この女性論の問題。この二つだけは、どうにか見えてきたような気がする。

河出書房『日本生活文化史 5 動乱から秩序化へ』(1974)について 2

大石慎三郎以外の執筆者のものを読むと、呆れるほどの所謂江戸時代暗黒史観の空気に忖度しただけの内容なので、実に情けない。
暗黒史観の空気への忖度、というか、
日本では「地域活性化」を一つ覚えのように繰返す地方行政とマスコミがあり、それへの忖度が、徒弟制度的学派の中で、大量の旧石器捏造事件へとつなっがった事実もあるわけである。

一つ感じたことは、明治以後の各時代における「江戸時代観の変遷史」を本にまとめることができれば、江戸時代観の誤りがわかりやすくなるということだ。
河出書房のこの本の場合は、1960年代ごろの江戸時代観である。
それはつまり、江戸時代の村では「武士は横暴を極め、過酷な年貢を収奪されて農民は常に餓死寸前。生活の隅々にわたるまで規制を受け、(なぜか贅沢の話になるが)絹の着物などはきつく御法度、生活の細部にいたるまで五人組制度で密告させた」というのだが、
1960年代の若者がこの本を読んだら、村社会は不自由で陰湿でイヤだな、村には住みたくないと思うわけである。
一方、江戸の都市生活については、あまり具体的なことは書かれず、成功した大店主の苦労話などの伝記物語が書かれ、三井などの大店の社内訓のようなものが紹介され、奉公人でも辛抱すればいつか手代くらいにはなれる、辛抱が大事だと書いてある。

1960年代は、農村出身の若い中卒労働者は「金の卵」と呼ばれ、彼らが村を捨て、集団就職などで大挙して都市に移住して賃金労働者となるように促すことは、一種の国策であったといえる。本書は、そのような国策を普及させるためには、見本のような内容の部分が実に多い。よく読むと、華やかな都市生活者はいるが、全ての都市生活がバラ色だとは書いてない。辛抱が大事だと書いてあるのである。しかし農村に希望を見出すようには決して書かれない。
農村生活が嫌いになるようにしむけるのが、戦後の高度成長期における江戸時代観の特徴なのだろう。(1973年の石油ショックを機に、変化のきざしが少し見えてはいた。)
1976年のロッキード事件を境にして、江戸時代には賄賂政治が蔓延していたかのような国民意識が作られようとしてきた。時代劇では、国民は、一方では賄賂政治を懲らしめるヒーローに酔い、一方ではいつの時代も同じだったと諦めさせられた。テレビドラマの『水戸黄門』は1969年に始まっているが、初期のころには賄賂政治の話はなくユーモア小説の感があった。

明治初期の政府の役人たちがいうことには、「わが国には歴史というほどのものはない。歴史はこれから自分たちが作るのだ」とのこと。江戸時代のことは無視というか、無知なだけかもしれないが、江戸時代のどこがどう悪いという論は明治初期にはあまりなかったかもしれない。
その後、どのようにして虚構が作られ、江戸時代観は変遷していったのか、厳密に調べてみる必要があるだろう。
天保の飢饉などが誇張されていった過程についても、確認する必要がある。それは国定忠治などのやくざ者がヒーロー化するプロセスでもあったかもしれない。

河出書房『日本生活文化史 5 動乱から秩序化へ』(1974)
の「第一章 農工生産の進展」は、大石慎三郎執筆とあるので、期待して読んでみた。
(以下、概要と私見。【】は論文の小見出し)
【土木技術の進歩】
【耕地面積の増大】
近世初期の話。土木技術の進歩が耕地面積の拡大をもたらしたとする。その背景については特にふれられていない。
【封建小農の自立】
耕地面積が増えたので「封建小農」の自立が可能になったと簡単にふれる。「封建小農」とは「単婚小家族農民」のことという。小農化ということである。
「農業の中心地域を従来の谷戸地帯から平場地帯へと移した」ことを強調。普通の農村風景の誕生ということだろう。
「百姓」の意味について、戦国期は在地小領主の意味だが、江戸時代は「封建小農」の意味に変わったとする。
私が史料を読んできた限りでは、それだけでなく、「百姓」の語は、土地を所有して年貢を納める者、という語感があるように思う。農民だけでない。
【農民と石高】
過度な小農化を制限する「分地制限令」によれば、農家1軒で10石(1町歩)が標準だが、実際はそれよりやや少ない農家が多い。「好ましい農民像」が平均より少し多い1町歩ということなのだろうとされる。実際は、副業があるので6〜7石の農地でもやっていけると思う。
田と畑の比率は、関東以外では「全石高の三分の一が畑であるというのが幕府の概算である」という。石高を決めるときの基準のような書き方にも読める。「石高の三分の一」であって「面積の三分の一」ではないことに注意して読まねばならない。畑の石高は田の半分だという先生もいたが、そうだとすると、面積比では田と畑は半々になる。
しかし関東では「畑地が圧倒的に多い」という。実際の村々の年貢割付を見ると、畑の石高は田の半分よりだいぶ少なく、1/4から1/5といった感がある。
【農民と住居】
農民の住居。母屋のことだろうが、上層農民以外では平均25坪。8畳が6つで24坪の計算だが、そのうち半分は土間で、馬屋なども中にある。便所は外にあり、肥料の貯蔵所を兼ねる。
庭は、むしろを敷いて稲籾を日に当てて乾燥させるための広さが必要だ。
【村落共同体】
稲作は、潅水が必要なので「完全に経営の独立性を確立しているわけではない」「組織への従属者」ということだが、当たり前のことである。文章の用語が古い感じもあり、だから農民は不自由だと読むのは誤解であろう。村民どうし協力せねば成り立たないことが少なくないということである。潅水の整備はまた領主の義務でもある。種籾が確保できないのも領主の責任だ。
工業は原料に依存し商業も仕入先に依存する、この世に真に「経営の独立性を確立」した産業などはありえない。
【封建領主の権力】
村の入口までの潅水は領主の義務だが、実際の工事は農民が行い、その工事を「御普請」という。村内での水路の整備は「普請」という。これにより「封建領主と村落から二重の強い規制(支配)を受ける」という表現は大げさである。むしろ、江戸時代の規制とはこの程度のことかとも思えてしまう(これ以外にもあるにはあるだろう)。
「農民の生産および生活の場としての集合体(自然村落)」を領主はそのまま「支配の末端にくみいれた」とされる。「そのまま」というのは「自然村落のまま」ということ。
【農耕技術の進歩】
単位あたりの収穫量を増やす方向で改良された
【鉱山業】その他
林業について。近世初期の検地では、山林原野は幕府のものという見解だとのこと。一定以上の樹木も領主が掌握する。これらは、明治初期の上地令で、村の入会地などが国有林として収せられ、見解ではなく法的に確定したといえる。このとき、原野でない山林、多くの神社所有地などについて、新政府の権利が確定したが、なぜか西日本では山地が私有林となったものが実に多い。これは討幕派勢力の私有地となったということだろう。日本では山地の検地が行われたことは一度もないらしい。

近世の新田開発

2017.02.22 Wednesday◇近世史Edit
菊地利夫著『新田開発』至文堂 1963
近世の新田開発についての、さまざまな角度からの概説。
ぱらぱらと拾い読みしたが、新発見などあり。

個別の田畑の年貢の基準高となる石高を決めることを「石盛り」といい、江戸時代の平均は、中田なら1反=1石だが、それよりもかなり高いときは「かぶせ盛り」があるとのこと。それにはさまざまの特殊事情があるという。
「かぶせ盛り」の用語は初めて知ったのだが、畑についてはたぶんそういうことだだろうと思っていた例はいくつか知っていた。その例の1つは、国定忠次の出た上州国定村について、畑の年貢が永140文ほどで、武蔵北部の永96文よりだいぶ高いのは、上州では養蚕が盛んな地域で現金収入が多いことが見越されて高いのだろうと思っていた。もう1つは武州の畑作地帯に僅かの田があり、年貢は高めで5斗を越えていたのは、おそらく自然の湧き水が形成した沼などを田としたもので、土地が肥沃で水も良質ということではないかと思った。おそらくそれで間違いないことは、この本に書かれているくつかの実例から、わかった。

新しい新田では、農民が開墾したものなら、開墾から一定期間は年貢が免除ないし格安になるのだが、逆に高い例もある。これは、官営の新田を、格安で農民に払い下げたため、開墾費用の元をとるために高めの年貢となるそうである。最初は格安でないと農民は手が届かない。
年貢を高くした事情の中には、検地帳に記された田畑の面積とは違い、実測面積が2倍ほどになる例もあったとのこと。計測に使った縄が延びていたということから「縄延」という。新田開発時の減免措置の1つとして、年貢を減らすのではなく、意図的に縄延という方法をとったが、年月が経過したあとで再測量はせず年貢を上げたということだろう。
「縄延」は、略して「延び」と言い、現代でも使われる言葉である。宅地にしろ田畑にしろ、実際の面積は登記面積よりも多いのが普通である。明治のころは、民間の測量士を育成してかなり正確な地図などを作らせもしたが、田畑についてはどの程度の延びを認めたであろうか。実際とは別に江戸時代の検地帳に「一反」と記載された田畑は、明治になっても「一反」なのではないかと思うが、当地では三角測量の計算図などが大量に残されているので、近世初期の延びよりは実際に近かったようにも思えるが、なんともいえない。明治政府の役人が測量したのではトラブルが起こりやすいと見たためなのかどうか、とにかく民間の農民の一人がやりかたを学んで測量した例が多いと思う。全農民に対して平等に延びを扱わねばならないので、大変な仕事だ。昭和になると、田では耕地整理などがたびたび行われ、そのたびに登記面積と実測面積は近づいているのではないかと思う。畑は市街化などで区画整理がなければ、明治のままだろう。江戸時代の延びの平均がどれくらいだったかは、わからない。

江戸時代の1反当たりの米の収穫量について、推定する試みがある。昭和と比較して明治はこれだけ少ないので、江戸時代はもっと少ないだろうという想像である。しかし、昭和の1反と江戸時代の1反では、実際は同じ面積ではない。したがって、単純な計算や想像よりは、江戸時代の「1反当たり」収穫高は多かったわけである。

司馬遼太郎の対談集『土地と日本人』によると、日本の国土の大半を占める山林について、民有林では所有者が誰で面積がどれくらいなのかは、いまだに闇の中にあるらしい。山林は官のもの、将軍様のものとして立ち入らない(唯一の入会権は厳格なものとなる)のは江戸時代の話なのだが、その後は官でさえ立ち入れないのかどうか。

さて、この本の「さまざまな角度や視点」とは、土木技術、経済史、農政史などである。環境学や人口学の観点からのものを読みたかったが、1963年という時代では、そこまでは望めないのかもしれない。その理由で拾い読みになった。
環境学とは、大石大三郎著『江戸時代』で、江戸時代初期の新田開発により、森林が過剰に開発されて洪水が多発し、新田開発を自粛する政令が出されたことなどについてである。
本書『新田開発』によると、江戸時代初期の畑作地帯の新田開発の例では、1軒あたり5町歩を基準にしたそうで、ただし畑には堆肥が必要なので、畑5町歩のうち半分は実際は山林で腐葉土を溜めていたとのことである。したがって畑の反当たりの年貢は安くなるわけである。田は川の水に栄養分が含まれる。江戸中期移行では、1軒で1.7町歩程度となり、全て畑として耕作しないと世間並みの収入にはならない。このばあい肥料は金銭で購入するのが近代的なやりかたなのだろう。しかし腐葉土のためだった山林を畑に開発するのは、自然破壊になるかもしれず、そういう研究の本を読んでみたいと思った。

楜澤能生『農地を守るとはどういうことか 家族農業と農地制度』(農文協)
という本に、明治以後の農地制度について、たいへん勉強になることが書かれてあった。

ただし、江戸時代の認識について、少し問題があるかもしれない。
「今まで領主にいつ何時取り上げられるかわからなかった農民の土地所持」16p
などという文は、西洋史の「封建制土地制度」の解説文そのままのように思える。
日本では近世初期の検地によって近世的土地所有は確立したとする学者が多くなっている。

とにかく、いつ取り上げられるかわからない土地が、農民自身のものになり、近代的土地所有権が与えられたのが、地租改正の第一の効果だと著者はいう。第二の効果は、農地売買が完全に自由になり、たとえ農業従事者でなくとも新地主の土地についてのあらゆる権利が確立したことだという。
しかしこの「第一の効果」とされるものに疑問符がつけば、第二の効果しかなかったことになる。近世的土地所有は存在したのだから、近代的土地所有権になって加わったのは、農地を自由に売れるということだけになる。第一第二の他には、税の中央集権化を完成させたことだろうか。

同時期に、直接に農地ではない土地、農業資源や生活資源であった村持ちの山林が、一方的に国有化ないし一部の地主所有とされたことは、大きなマイナスの効果となった。この本の例では、岩手県で山林が民有化されて地主との問題になった例があげられているが、東北地方では国有林となった村持ちの山林が、西日本と比較して異常に多かった。官軍に逆らったためである。

明治22年に来日したアメリカの法学者 ウィグモアナが、民法等の制定当時の日本について書いていることが同書に引用されている。

「日本固有法の権威と称される学者にしても、太政官符や封建法典の研究には全力を注ぐが、人民の間での婚姻・養子・相続・質・小作・寄託、仲立・有価証券等の慣習法には全然興味を示さない。これは、全国3000万人、全人口の16分の15に上る農工商の庶民階級に対し、教養ある階級の抱く強烈な軽侮の念にもとづく。それでは若い世代の法学者はどうかといえば、その見込みはさらに一層薄い。」(ウィグモアナ)

「伝統的慣習的権利は、当時日本の法学の世界では古いもの、低級のものと蔑視され、商品取引を前提とした所有権の観念性こそ高尚で高級なものだとする意識が支配した。
……
若い層も西洋法は熱心に学ぶが、祖国の法は問題外とする」(楜澤)

庶民への軽侮の念、そのように異国の法学者の目には写ったのだろう。
しかし誰のための学問なのだろうか。あえて情状を酌量すれば、所有権の観念性の話は、どこか禅問答のようなところがある。通俗の感情論とは違う結論が出るところなどは、それなりの無常観をかもしだし、論理の遊戯性もある、ということも、当時の知識層に好まれたのかもしれない。
知識層がこんな人たちばかりでは、人民の中から、「古今集はくだらぬ集にて候」と言いたくなるリアリストも出るだろう。リアリストは古典を無視し、支配層や知識層は庶民の古典を無視する。歴史を無視することについては共通している。そしてどちらも19世紀の西洋で主流だった自然主義をよく学んでいるのも同じなのかもしれない。
明治の学問とは、こんなものだったのだろうかというと、確かにそのようなものが主流だったのだろう。

やがて、庶民の古典は、柳田國男などによって見直されるようになる。
歴史学の分野で、中世史の藤木久などが、その著書の冒頭を柳田國男の引用で始めるのも、意味のあることであろう。近世史もそうあるべきである。

「婚姻・養子・相続・質・小作・寄託、仲立・有価証券等の慣習法」(前出)については、近世の古文書を読んだときに、現代とは微妙に違うものが、ある程度は見えてくるものである。文書は、日常生活とは異なる事件が起きたときに残されることが多いと思うが、そのような文書からそのときの人々の行動などをきっちり観察すれば、当時の慣習なども具体的に見えてくる。「権威と称される学者」たちが無関心だったこの領域について、些細なことでも小さな発見を積み重ねてゆくしかないようである。「結婚と持参金」で書いたことも些細なことではあるが。
(小作争議や戦後の農地改革については次回)


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