これはちょうど鳩山政権のころのある古文書勉強会のテキストとして使ったとき、そんなタイトルをつけた。
その文書は、天保二年十月のもので、内容は、知行所各村の村役人らが、知行所の財政改革案、とりわけ人件費の削減について提案したもの。
保存文書は、かなり急いで写したとみえて、読みづらい文字だが、読んで見た。

  乍恐以口上書奉申上候
一 来辰年従五ヶ年間 御省略御仕法の趣
 逸々奉承?候?事
一 御家中御人払被仰付 御知行所村役人
共の内にて在府仕御用役御給人御侍等迄奉賄
御指配御給金頂戴不仕にて?知申儀存候
并御門番兼御仲間二人にて為御間合度存候但し
御給金は頂申度候事
一 御稽古御供の義は御侍にて兼帯仕候て相勤
 申義の事
一 御女中の義は御膳焚一人御茶の間一人にて
御間に合せ度奉存事
右の通り御仕法に被遊候へば御給金二十
二両二分 御扶持米五人扶持此?一ヶ年に
九石相減じ候様に奉存候 猶御尋の義
御座候はば口上にて乍恐可奉申上候 已上
 天保二卯年十月  御知行所
・役人
武(州 村々)
総(州 村々) 印

内容をまとめると、
一、旗本家で5か年をかけて財政改革に取り組む意向である
一、御家中の人払い、つまり家来や使用人の人員削減をする。
 村役人の中から上京して代ってその仕事に仕える者は給金は頂戴しない。
 御用役、御給人、御侍まで削減の対象に考えているらしい。
 門番を兼ねる仲間(ちゅうげん)は二人とし、給金は払う。
一、殿様や若様の武道の稽古には、お供は必要である(中小姓の仕事)。これは省略できない。
一、女中は二人、台所に一人、茶の間に一人。
(奥様付きの腰元は、私的なものでもあり、削減の対象外とも解釈できる)。
そして、このようにすれば、人件費二十二両一分、米九石が節約できる。
・・・というような内容であろう。

実際にはどう改革されたであろうか。
天保八年と十一年の旗本家賄帳なる文書があり、これは村役人が財政を切り盛りした詳細な支出報告である。
給金は、各人の年俸の半額が3月に支給され、残りを年末と秋9月の2回に分けて支給。そのうちの3月の支払い明細である。

 天保八年三月 御給金渡
三両二分 小笹守
三両   堀田惣左衛門
二両   御中小姓
一両二分 御膳焚
一両一分 御茶之間
一両   御腰元
五両二分 御仲間四人
一両   御乳母
〆金十八両三分也

 ※ 小笹と堀田は、「御用役、御給人」にあたる人である。
 次に、3年後の帳面。

天保十一年三月 御給金渡
三両二分 小笹守
二両   御中小姓
一両一分 御茶之間
一両   御腰元
一両二分 御膳焚
四両二朱 御仲間三人
〆金十三両一分二朱也

堀田惣左衛門(3両)がない。仲間一人(1両1分2朱)減、乳母(1両)はなし。

乳母は、たまたま必要でなくなったのかもしれないが、仲間は一人減っている。
用人一人(堀田)減は大きい。
地頭所からの通達文書を見ると、従来は二人の署名があったが、天保九年より、堀田の名は消えて、御賄方・御蔵元・小笹の3人連署となった。そのうち御賄方・御蔵元の2人は知行所村役人である。文書の通達先の村の役人が、この二役のうちに該当するときは、当然、通達主には名を連ねない。したがって村役人2人が必要となるわけだろう。
堀田は天保9年に職を解かれたことになるが、武士を解雇するのは大変なことかもしれない。しかし、天保8〜9年に地頭所が商人から借金した證文が大量に名主家に存するので、その借金を村で肩代わりすることによって、村々の提案が承諾され、人件費削減は実行されたようだ。
(ちなみに仲間一人1両1分2朱は、年間では2両3分。村の名主家の奉公人でも3両は貰っている)

どの旗本家でもこのようなことになると、江戸の町には浪人があふれ、治安も悪くなる。
しかしこの改革は失敗に終った。
天保13年、給人格の一人が、年貢米を金納するための計算をして知行所全8ヶ村へ通知したときの金額にミスがあり、ある村から指摘された。その人は武士道に撤するかのように名主を辞し、その子も同様。もう一人の給人格の名主(わが先祖)も隠居して伜に家督を譲り、以後この役につくものが出なかった。
そして翌年から給人については二人に戻った。

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