横浜市歴史博物館の企画展のパンフレット『絵図・古文書で探る村と名主』は、
武蔵国久良岐郡上大岡村、今の横浜市南部のあたりの村の古文書についてのもの。
村の絵図面や地図が多数収録され、江戸後期のもの3点、明治のものが約10点、数が多いので、展示のときはインパクトがありそうだ、

文書に関しては5つに分類されているので、分類法などを考えるための参考に、列挙する。

(1) 領主の支配と村
「支配」という言葉が好きな人が多いのかもしれないが、そのようにやるなら明治や現代文書でもやらねばならないので、当ブログはやらない。この分類(1)の内容は、
「御触書」「高札」「御条目」などの写し。「五人組書上げ帳」。鉄砲取締りの文書。高札の現物は明治初頭のもの。
上からのお達し文書は、明治時代よりは比較にならないほど少ない時代ではある。
「村高家数人別書上帳」は求めに応じて作られる村の概要。「宗門人別帳」は恒例のもの。一方的なお達し文書とは違う。

(2) 検地と年貢
「文禄の検地帳」があるのは珍しいか。他は「年貢可納割付」「年貢皆済目録」など。他村との入会である秣場の野銭に関する文書。


(3) 社寺
「社寺名前書上帳」「同什物器財書上帳」などは明治初年。宮普請や講中の寄付帳。
名主家が寺へ寄付したときの寺の受取。分類(5)でないのはページ構成の関係か。

(4)村の出来事
「儀定連印帳」各種。川普請、水利関係。〈村方騒動〉と編者が名付けているもの。家督證文。
侘入證文は、口頭注意でなく證文を書かせることが多かった。今のようになあなあでやって後々曖昧になりにくいので良いと思う。声だけは大きい者が後で復活するのも多少は防げるかもしれない。

(5) 名主北見家
名主家の、名主任命、苗字帯刀、給人格。遺言状。什物などには箱書がある。

榛名山初穂料

2016.10.09 Sunday◇古文書〜神仏Edit


  覚
一金百五拾疋
右の通御代参御初穂
目出度 神納仕候
以上
 榛名山谷之坊改
   吉田祐太夫 (印)
巳三月晦日
原之郷村
 御代参 宇兵衛様

榛名山は、水の神、農業の守護神として広く信仰された。温泉などもある。
代参者が納めた初穂料の領収書のようなものであるが、人数分のおふだが授与されたものと思われる。
旧榛名山の御師は谷之坊を名のっていたが、「谷之坊改 吉田」と苗字が記され、明治の御一新の直後のもの。
巳年とあるので、明治二年である(これは断定で間違いない)。

熊野宮

2016.10.07 Friday◇古文書〜神仏Edit


「日本第一 大霊験 熊野宮神牘(しんとく)
 武州藤沢 惣社神主 」
と書かれ、熊野の神使である多数の烏の絵がある。
「おふだ」である。

江戸時代の人々は、広く各地に足を運び、道中で著名な神社仏閣には参拝し、おしるしを授かったということだろう。
武州藤沢とは、今の埼玉県入間市下藤沢のあたりで、その地には今も 熊野神社 という神社があるようだ。

余談だが、戦国の武将、太田道潅が戦ったという「藤沢の役(藤沢の戦)」は、川越城からも遠くないこの地の出来事なのではなかろうかと、思っている。吉田東伍は地名辞書で、深谷市南部の人見ヶ原のあたりだというが、その付近を藤沢村と言ったのは明治中期以後で古い地名ではないとのことである。

2、古文書のテキスト文書化

古文書の画像ファイルが増えてゆくと、同時に、読み解いた文書ファイルも増えてゆくことになる。

文書ファイルの形式は、テキストファイル、または馴染んだワープロ文書ということになるだろう。テキストファイルは、MS-DOS時代からのシフトJIS形式でよい。

現在はパソコンで数万の漢字の使用も不可能ではないが、かな漢字変換で気軽に扱えるわけではない。かな漢字変換のことを考えると、シフトJISで定められた文字と記号のみを使うことになる。

漢字については、原則として、「本字」ではなく、現代の略字体を使う。古文書に書かれた漢字も、略字に置き換えることになる。
個人の趣味により、例外は設けられる。証文ではなく證文。武芸ではなく武藝、など。元号の慶應だけは書きたいとか、シフトJISでは、横の本字はないが、濱ならあり、1つだけでも使いたい、など。こういう例外を除けば、昭和後半以後の市町村史資料編の類では本字が(全体に)使われたものはまだ見たことがない。
「候」は、「ゝ」「イト」どう書かれてあっても「候」。
漢数字の壱・弐等は、一・二等にすれば即座に暗算で計算できて内容を把握しやすい場合には、そうするのが良い。字形にばかり忠実で、金額の高い低いの評価もわからないのでは、あまり頭を使ったことにはなるまい。
文書ファイルは他のパソコン等で表示させても同じ文字が表示されなければならず、機種依存文字は使用しない。

変体仮名、万葉仮名は、すべて「ひらがな」で。
助詞の「へ」にあたる「江」は、「え」ではなく「へ」。「より」を1字に書いたようなのも「より」の2字。
そのほかの仮名遣は、原則は、原文通り。近世文学研究者のなかには、正統な歴史的仮名遣に直してしまう人もあるが、村の文書では文学的なものは少ない。俳句や和歌などは直しても良いかもしれない。

句読点、引用符「」、書籍名『』などの記号の付加は、個人の趣味の問題。並列表記の「・」の付加はあまり感心しない。

日本の筆書き文書は、句読点がなくとも、あまり読みづらくもないのは、文字の微妙な大小を使い分けたり、微妙に文字の間隔を調整しながら書くなどするためである。したがって、空白の適宜な挿入は、重要なことだと思う。

判読不明文字を表す記号。
印刷本などでは「□」がよく使われたが、パソコンの画面上では、口(くち)やロ(ろ)と区別しにくい。某大学のHPで近世文学関連のページを見たら、教授ごとに自由な記号を使っていたが、統一しなくともそれとなくわかるものである。ある研究者は「★」が目立つので良いという。虫食などで不明文字が連続する場合は、・・・・・・・・・・・・・・・・・とすれば入力も1秒以内で済むので良いと思う。確定できない字を{ }で括っておいても良い。後で修正を加える必要があるので、本人がすぐに探せないと具合が悪い。

画像ファイルとの関連づけのしかたなどについては、別に書く。

パソコンを利用した古文書管理について。
1、古文書のデジタル画像化(撮影時の状態を永久保存。頻繁な閲覧による劣化を防ぐなど)
2、読んだ内容のテキスト化(検索が容易になるなど)
3、それらによるデータベースの構築。印刷や複製。
以上については、個人でできる範囲についても考えなければならない。

1、古文書のデジタル画像化

撮影時の状態のまま永久保存し、頻繁な閲覧等による原本の劣化を防ぐ。万一予期せぬ現物の損壊を被っても保存データは残る。手軽に画面に表示させることができる。
既に公立図書館などではかなり進んでいる。

スキャナとカメラ撮影の2つの方法がある。
カメラ撮影では、連続撮影は早いかもしれないが、カメラの固定設置そのほか、撮影技術を要する。

スキャナでは、撮影技術がなくても、精細な画像を得ることが可能である。
EPSON社あたりのA3サイズ対応で高速な機種を選ぶことになる(ES-7000など)。
A3でも不足の場合もあるが、例えば奉書サイズで紙の周囲余白を含めない文字部分だけならA3に収まることが多い。
(格安品で、読取りは標準的なスピードでも、次の読取り開始までに大変な時間がかかるものがある。)

画像の解像度の問題。300dpi(1インチ300ピクセル)でできれば良いが、スキャナするのに時間がかかる。
個人の作業では、98dpi(半紙の330mmが約1280ピクセル)でも十分で、細かい字がある場合のみ解像度を上げる方法もある。

保存ファイル形式 jpeg形式で保存。ファイル名の一例
 正徳_4_10b-01.jpg
正徳4年10月の日付の文書で、同月の文書の2つめなので「b」を付加。「-01」は分割撮影された長い文書の1つめの画像の意味。
フォルダ名を「数字+元号」とすればフォルダは数字順にソートされ、その中にファイルを入れる。


画像管理ソフト VIX の表示例。「コメント」を表示したもの。
このコメントは外部ファイルからの一括入力が可能。/ | などは、csvファイルの","から置換した区切記号である。

画像ファイルの蓄積と同時に、文書目録が作られてゆく。
画像管理ソフト上でのコメントなどの詳細な項目表示が、文書目録そのものであるような、そのような画像管理ソフトが望ましいのだが・・・。



  覚
一金七両二分 太々神楽料
一金二百疋  御神馬料
一金 百疋  御留守居
一青銅五十疋 御神参目付
一同 三十疋 供僧
一同 三十匹 御宮詰
一鳥目二十疋 御供世話人
一同 四十疋 下部五人
 右の通慥致拝手候成
    白雲山御宮
   寅八月廿八日
     当番 (印)
  太々講衆中

白雲山御宮とは今の群馬県の妙義神社のことであるらしい。
太々神楽料の金額ほか明細と、受領したことが書かれ、「当番」の押印がある。
「七両二分」は高額に見えるが、講中の人数が多かったのだろうか。
「寅」とはいつの寅年か。慶応二年(1866)かもしれないが、その年かそれに近い寅の年ではなかろうかと思う。

「疋」という金銭の単位については、辞典などの説明が全く当てはまらない例もあるようだ。広辞苑では「古くは鳥目一○文を一匹とし、後に二五文を一匹とした。」と書かれるが、別文書だが「金一疋」は(鳥目)二文としかとれない文書も実在する。

「供僧、御宮詰」などなどは、民間なら奉公人に相当する人たちと思われ、多数の人たちへ心付けのようなものを納めたようだ。
商家などの奉公人も、定められた給金のほかに、心付け(チップ)があった。

借金するなら姉妹から

2016.10.01 Saturday◇近世史Edit
旧題 結婚と持参金
江戸時代には結婚に際して、嫁入り、または婿入りの側が持参金を持参することが普通だったようで、武家や上層階層の者は金額も高額だったらしい。
200石余りの小旗本・神谷家では、幕末のころ、殿様が重病のため引退し、若様が当主となったが、医療費の支出などで困窮したようだ。姫様は出家して尼僧となり、知行地の小さな村の無住の寺に住み、村人の援助などを受けて暮したという。結婚のための持参金を作れなかったのだろうと思った。

地方の村々では、臨時に大金が必要なとき、名主どうしで金銭の融通をした。借りやすい相手には、縁戚関係になっている遠方の村の名主などがある。
手持ちの村の古文書を調べてみると、名主が妻の実家から借金することはなかった。一方、名主の姉妹の嫁ぎ先からの借金は多かった。
その理由について以前思ったことは、妻の実家から借金しては夫のメンツが立たない。姉妹の嫁ぎ先なら、先方からみれば妻の実家への援助であり、男気を発揮する場面である、ということを思ったのだが、今はもっと現実的なことではないかと考えるようになった。
つまり、姉妹の嫁ぎ先なら、既に持参金は持たせてある。その持参金の一部を一時的に流用するだけのことなのである。妻の実家から借りるとなると、あれだけの持参金を持たせたのにまだ足りないのかということになり、具合が悪い。逆にいえば、姉妹の嫁ぎ先からばかり借金するということは、高額な持参金が存在した証になると思う。

嫁の持参金は、家を代表する夫の名義の財産になると、これまでの解説にもあった。しかし離婚の際は返済しなければならないという。
ということは実質的には結婚後も妻の財産であろう。使うときは夫の名義で買物などをするだけのことであり、現代の生活と同じだ。亡くなるときには家の財産として子に引き継がれるのだろう。
中世には妻の財産は制度的にもしっかり確保されていたという研究者もあるが、中世的な妻の財産は、江戸時代に変容をとげ、持参金という形になったということではないか。持参金がある以上は、発言権などがまったくないということはないだろう。
現代では「持参金」という言い方は少なく、個人の財産は、基本的に生涯個人の財産である。



榛名山神前筒粥目録
夕かほ   六分
うぐひすな 半吉
なすび   同
うり    十分
わせ大豆  八分
おく大豆  六分
あさ    半吉
かいこ   七分
大むぎ   六分
小麦    半吉
わせ小豆  同
おく小豆  六分
ささげ   カイサン
いも    同

わせいね  六分
中いね   半吉
おくいね  同
木わだ   八分
大こん   六分
あきな   カイサン
ひゑ    八分
早あは   同
おくあは  七分
きみ    十分
そば    同 
あい    同
けし    八分
からし   十分
ごま    七分
つづみ   十分
もろこし  同
正月十五日執行 辰年

榛名山での筒粥神事の結果の刷り物。その年の農作物の吉凶を占ったもの。
「正月十五日」とあるのは旧暦と思われる。
「辰年」については、明治初年前後ごろのものかもしれない。



一筆致啓上候。先以 其御地
御家内御堅勝 可被成御座、
珍重御義存候。然ば先達て
御参宮の所、麁末の仕合
残念の至御座候。先儀御参
宮御礼物 首尾能相済、幾久
目出度奉存候。弥 御道中
御安全 可被成御帰国、大悦
存候。尚重て御参宮奉
待候。恐惶謹言
   御師
    三日市大夫次郎
 八月吉日   公好

江戸時代の古文書のうちでも、神仏に関するものは、現代からの類推で解釈可能な要素が多い。
他の文書で頭を悩ませているときなどには、一服の清涼剤といったところ。

画像は、伊勢御師の中でも最もよく知られた三日市太夫からの御礼の口上の文で、木版刷り。
伊勢で参宮を終えた人々への祝意、帰国の無事を祈る内容と思われる。
「粗末な対応しかできずに残念の至り」という言葉は、謙遜の意味と、お名残惜しいという意味なのだろう。

宮田登・圭室文雄共著『庶民信仰の幻想』の印象が良かったので、後に 圭室氏の『葬式と檀家』を読んだのだが、これは残念な内容だった。近世初期のキリシタン問題について、今の人権思想の観点から批判しているようなところがあったからである。

この問題で他に蔵書を当ってみたが、NHK歴史への招待シリーズの対談でで山崎正和氏が触れているくらいだった。日本人は好奇心が旺盛で、外国の宣教師の話にも耳を傾けようとした、非キリスト教圏では珍しい存在だったとのことである。それが日本で一時一定の拡がりを見せた原因の一つではあるのだろう。

私はもう一つ別の見方をもっている。神社仏閣に対する人や集団の信仰形態、そして家族形態が、戦国期と江戸時代では違うという点である。
江戸時代の家族は、夫婦とその子供が同居し、子供の一人が配偶者を得て家を継承し、直系の子孫が直系の先祖を祭るのが先祖信仰である。労働は家族単位であり、村の衆議でも家族の代表一人が参加し、一部の例外を除いて家族の菩提寺は共通である。これらはいかにも日本的で安定的な秩序になっているが、夫婦の同居以下ここに書き出した全てについて戦国時代には一般的でなかったようなのである。独立自立した家族を持ちたいという願望は、すでに民衆の中に芽生えていて、そういった願望を満たすような内容が宣教師の話にあったという見方もできる。
江戸時代的な秩序の成立には寺請制度のはたした役割は大きいと思うが、すでに戦国時代はそれへの移行期でもあったので、個人を引き抜くようなキリシタンは時代に逆行するものであったかもしれない。家族を基盤にした江戸時代的な村は、村鎮守のもとにまとまったが、江戸以前には名主(みょうしゅ)の氏神が中心にあった可能性がある。キリシタンを経験しなければ、寺請制度も村鎮守も早くには成立しなかったかもしれない。
西洋では個人の自立が建前になっているが、日本では家族が核となって代表が村の衆議などに平等に参加するようになってゆく。家族の個人個人が別々の、時には対立するような思想をもつことが社会の進歩だとも思えない。少なくとも家族形態においては、近代的な家族が江戸時代には成立したと考えて問題ないように思う。……といった見方をしている。

日本人では、年貢を納めることによって耕作権や土地の所有権は確保されたという認識がある。年貢を誰に納めるかといえば、多くは大名などの武士だったのだが、寺院の領地の領民は、寺院に納めた。寺院には大名のようなところがあり、大名と戦もした。こうした日本の寺院の権限と同じものをキリシタン教団に即席で与えるわけにはいかないと考えるのは当然だろうと思う。

きりしたん禁制の高札は、明治元年にも新政府から出された。当時の特に西日本では、彼等への迫害が非常に多かったと谷川健一の本で読んだ。「尊王攘夷」の特に「攘夷」を、新政府の変節後も字義通りに実践しようとしていた下級武士たちのエネルギーの、その行き場になったのかもしれない。続く寺院破壊も同様であろう。こうした迫害が最も多かったのはどの時代だったかについては、よくよく検討しなければならないのではないかと思う。


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