江戸時代には結婚に際して、嫁入り、または婿入りの側が持参金を持参することが普通だったようで、武家や上層階層の者は金額も高額だったらしい。
200石余りの小旗本・神谷家では、幕末のころ、殿様が重病のため引退し、若様が当主となったが、医療費の支出などで困窮したようだ。姫様は出家して尼僧となり、知行地の小さな村の無住の寺に住み、村人の援助などを受けて暮したという。結婚のための持参金を作れなかったのだろうと思った。

地方の村々では、臨時に大金が必要なとき、名主どうしで金銭の融通をした。借りやすい相手には、縁戚関係になっている遠方の村の名主などがある。
手持ちの村の古文書を調べてみると、名主が妻の実家から借金することはなかった。一方、名主の姉妹の嫁ぎ先からの借金は多かった。
その理由について以前思ったことは、妻の実家から借金しては夫のメンツが立たない。姉妹の嫁ぎ先なら、先方からみれば妻の実家への援助であり、男気を発揮する場面である、ということを思ったのだが、今はもっと現実的なことではないかと考えるようになった。
つまり、姉妹の嫁ぎ先なら、既に持参金は持たせてある。その持参金の一部を一時的に流用するだけのことなのである。妻の実家から借りるとなると、あれだけの持参金を持たせたのにまだ足りないのかということになり、具合が悪い。逆にいえば、姉妹の嫁ぎ先からばかり借金するということは、高額な持参金が存在した証になると思う。

嫁の持参金は、家を代表する夫の名義の財産になると、これまでの解説にもあった。しかし離婚の際は返済しなければならないという。
ということは実質的には結婚後も妻の財産であろう。使うときは夫の名義で買物などをするだけのことであり、現代の生活と同じだ。亡くなるときには家の財産として子に引き継がれるのだろう。
中世には妻の財産は制度的にもしっかり確保されていたという研究者もあるが、中世的な妻の財産は、江戸時代に変容をとげ、持参金という形になったということではないか。持参金がある以上は、発言権などがまったくないということはないだろう。
現代では「持参金」という言い方は少なく、個人の財産は、基本的に生涯個人の財産である。



榛名山神前筒粥目録
夕かほ   六分
うぐひすな 半吉
なすび   同
うり    十分
わせ大豆  八分
おく大豆  六分
あさ    半吉
かいこ   七分
大むぎ   六分
小麦    半吉
わせ小豆  同
おく小豆  六分
ささげ   カイサン
いも    同

わせいね  六分
中いね   半吉
おくいね  同
木わだ   八分
大こん   六分
あきな   カイサン
ひゑ    八分
早あは   同
おくあは  七分
きみ    十分
そば    同 
あい    同
けし    八分
からし   十分
ごま    七分
つづみ   十分
もろこし  同
正月十五日執行 辰年

榛名山での筒粥神事の結果の刷り物。その年の農作物の吉凶を占ったもの。
「正月十五日」とあるのは旧暦と思われる。
「辰年」については、明治初年前後ごろのものかもしれない。



一筆致啓上候。先以 其御地
御家内御堅勝 可被成御座、
珍重御義存候。然ば先達て
御参宮の所、麁末の仕合
残念の至御座候。先儀御参
宮御礼物 首尾能相済、幾久
目出度奉存候。弥 御道中
御安全 可被成御帰国、大悦
存候。尚重て御参宮奉
待候。恐惶謹言
   御師
    三日市大夫次郎
 八月吉日   公好

江戸時代の古文書のうちでも、神仏に関するものは、現代からの類推で解釈可能な要素が多い。
他の文書で頭を悩ませているときなどには、一服の清涼剤といったところ。

画像は、伊勢御師の中でも最もよく知られた三日市太夫からの御礼の口上の文で、木版刷り。
伊勢で参宮を終えた人々への祝意、帰国の無事を祈る内容と思われる。
「粗末な対応しかできずに残念の至り」という言葉は、謙遜の意味と、お名残惜しいという意味なのだろう。

宮田登・圭室文雄共著『庶民信仰の幻想』の印象が良かったので、後に 圭室氏の『葬式と檀家』を読んだのだが、これは残念な内容だった。近世初期のキリシタン問題について、今の人権思想の観点から批判しているようなところがあったからである。

この問題で他に蔵書を当ってみたが、NHK歴史への招待シリーズの対談でで山崎正和氏が触れているくらいだった。日本人は好奇心が旺盛で、外国の宣教師の話にも耳を傾けようとした、非キリスト教圏では珍しい存在だったとのことである。それが日本で一時一定の拡がりを見せた原因の一つではあるのだろう。

私はもう一つ別の見方をもっている。神社仏閣に対する人や集団の信仰形態、そして家族形態が、戦国期と江戸時代では違うという点である。
江戸時代の家族は、夫婦とその子供が同居し、子供の一人が配偶者を得て家を継承し、直系の子孫が直系の先祖を祭るのが先祖信仰である。労働は家族単位であり、村の衆議でも家族の代表一人が参加し、一部の例外を除いて家族の菩提寺は共通である。これらはいかにも日本的で安定的な秩序になっているが、夫婦の同居以下ここに書き出した全てについて戦国時代には一般的でなかったようなのである。独立自立した家族を持ちたいという願望は、すでに民衆の中に芽生えていて、そういった願望を満たすような内容が宣教師の話にあったという見方もできる。
江戸時代的な秩序の成立には寺請制度のはたした役割は大きいと思うが、すでに戦国時代はそれへの移行期でもあったので、個人を引き抜くようなキリシタンは時代に逆行するものであったかもしれない。家族を基盤にした江戸時代的な村は、村鎮守のもとにまとまったが、江戸以前には名主(みょうしゅ)の氏神が中心にあった可能性がある。キリシタンを経験しなければ、寺請制度も村鎮守も早くには成立しなかったかもしれない。
西洋では個人の自立が建前になっているが、日本では家族が核となって代表が村の衆議などに平等に参加するようになってゆく。家族の個人個人が別々の、時には対立するような思想をもつことが社会の進歩だとも思えない。少なくとも家族形態においては、近代的な家族が江戸時代には成立したと考えて問題ないように思う。……といった見方をしている。

日本人では、年貢を納めることによって耕作権や土地の所有権は確保されたという認識がある。年貢を誰に納めるかといえば、多くは大名などの武士だったのだが、寺院の領地の領民は、寺院に納めた。寺院には大名のようなところがあり、大名と戦もした。こうした日本の寺院の権限と同じものをキリシタン教団に即席で与えるわけにはいかないと考えるのは当然だろうと思う。

きりしたん禁制の高札は、明治元年にも新政府から出された。当時の特に西日本では、彼等への迫害が非常に多かったと谷川健一の本で読んだ。「尊王攘夷」の特に「攘夷」を、新政府の変節後も字義通りに実践しようとしていた下級武士たちのエネルギーの、その行き場になったのかもしれない。続く寺院破壊も同様であろう。こうした迫害が最も多かったのはどの時代だったかについては、よくよく検討しなければならないのではないかと思う。

「NHK趣味悠々古文書を読んでみよう」は、2001年にNHK教育テレビで9回放送された番組(講座)内容を、NHK出版が出版したもので、講師は森安彦氏。
副題に「文書で知る江戸の農村のくらし」とある通り、国民の多数が生活していた農村での生活文化について、それに相応しい文書を選んで、文書の読み方や解説を載せている。
その講座でどんな文書が選ばれているかをリストに整理してみて、今後の各村の古文書紹介での「選び方」の参考にしたい。

1〜3は手習に関するもの
1、
「いろは覚」 手習の最初に学ぶ、いろは四十七文字の仮名の手本の文字。ひらがな、変体仮名を読み書きするときの手本。
筆者の手元には、子どもが書いたと思われる、いろは七文字を書いた半紙半分の紙がある。

「中浚」 浚とは手習塾での定期的な試験のようなもので、生徒が書いた文字に師匠が朱書きで評価などを加えたもの。
手元にはない(大人の俳句の会で朱入りのものはよくある)
2、
名頭字」 人名に使用される文字を学ぶもの。
江戸方角」 江戸の地名に使用される文字を学ぶ。
手元には江戸方角の断片がある。「近所村々」の四文字で始まる地元(北武蔵)の村名を列挙したもの(呼び名不明)もある。
「自遣往来」 手紙の例文を多数収録した往来物の一つで、自遣往来は江戸とのやりとりの文が多いらしい。手紙は、季節行事や冠婚葬祭に関するものなどである。
手元には、女手のものも含め多数の往来物の書写したものがある。「隅田川御手本」などの物語本もある。

「手習子供名附」 手習塾に通う子どもの名簿。
「寺子教訓之書」 学問とは何かなど、「修身」のような内容。
手元には儒教の用語などが出てくる子ども向けの小さい版本がある。

4〜7は、家族内でのもの

「縁談覚書」 縁談の申し入れから結婚後の披露までの経緯を日付順に記録したもの。
手元には、「人別送り状」があるくらいである。通常の手紙の中で、近い日に行なわれた行事への祝意が記されることもある。
「御婿入献立」 今でいう披露宴の料理の献立。
「婚礼餞別貰其外諸式控帖」 御祝儀として受け取った金品の記録。手元には何やら類似の断片があるが、婚礼かどうかは未確定。

「離縁状」 三行半のもの。夫が妻に書く。
手元にはない。普通はないと思う。
「復縁につき禁酒慎み證文」 夫が證人と連名で名主宛に書いたもの。
手元にはない。他村の祭礼での出来事に対する、他村からの問糺し文のようなものはある。
「夫婦取交覚」 老夫婦が相互に取り交はしたもの。隠居宅の問題、老後の問題などの、安心のため。

「家訓」「家訓遺状」 朝起きて何をするかなど細かく書したものが紹介されている。
手元には大正時代の道歌形式のものがある。幕末に高札等から家のために重要なものを抜粋したものなど。
「諸式入用控帖」 日常の支出を記録した家計簿のようなもの。
手元にはない。類似のものは、奉公人の年俸を預り、煙草代や髪結代など必要ごとに支出したときの帳面がある。

「遺言状」 
「譲言」 甲州の名主の家督相続に関するものが掲載。五百石余を所持という。甲州では武士と農民の中間のような存在の者があり、かなり遠方の村々にも土地を所持した例がある。武士の観点からは知行地のようなものだろう。
「辞世の句」
手元には大正時代の辞世の歌を墓石に刻んだものがある。同人の葬儀では、弔いの和歌を多数贈られた。

8 村内の取り決め
「郷中連判議定書」 掲載のものは、畑の作物を盗むことの禁止と罰則、入会地の山林でのルールが書かれる。ここまで罰則などが具体的なものは稀と思う。
手元には、祭礼での取り決め、助郷の村内分担の取り決め、そのほか迷惑防止などの取り決めを、全村民の連名で作成したものがある。
「新屋敷取立て禁止につき取極め證文」 御公儀の方針である分地制限を取り入れたもの。分家の制限であり、名主は20石以上、他は10石以上の家のみ分家を認めるというもの。小規模な農業だけでは生活が成り立たず、仕事も半減し、平穏な村ではなくなる。
手元には、関連の文書として、分家とは逆に、二軒を一軒にする問題で、領主の裁定を仰ぎ、不可となった文書がある。二軒の合一となれば、石高が増え、奉公人を雇って面倒をみれるか、石高に見合った村役の仕事ができるか、寺への負担も二軒分であり、もし安易に土地を手放すことになれば、結局一軒をつぶしただけのことになる、ということだと思う。
「村柄風儀宜しきにつき褒美書」 領主からの表彰のようなもの。

9 旅日記など
「伊勢参宮関所手形」 五街道等の関所の役人宛てのもの。
手元にもある。婿が越後の実家に一時里帰りなどの手形もある。
「名所古跡参詣覚帳」 道中記、旅日記のことである。
手元には、伊勢参宮と西国三十三所の道中記などがある。明治初年のものに朱印帖もある
「旅金小遣覚帳」 旅日記とは別の支出帳。

以上の文書の選び方については、子ども時代の手習に始まり、家族に関するものを多く取り上げ、入門テキストとしては好ましいものと思う。
付け加えるとすれば、農業や機織りなどの実際の仕事に関するもの、村の祭礼、神社や寺の普請、講、道路や橋の保守についてのものなどがある。
水利や助郷に関する近隣の村々との取り決め。など。

この講座では省かれているが、領主との関係の文書。臨時の御用金は、年貢の先納として扱われ、細かな年末調整のような年貢皆済目録。領主(旗本)の返済不能金を帳消しするに際して、領主の家計支出の公表とそれに対する農民の意見書。領主家の葬儀での臨時支出の詳細な公表。など。



名頭字林

源 平 藤 橘
惣 善 孫 彦
弥 与 新 小

甚 勘 長 茂
忠 助 喜 市
清 伝 作 佐
治 久 又 半
角 多 文 伊
才 庄 嘉 権


『江戸方角』に続き、手習用の教科書である、『名頭字林』。または『名頭字』とも。
人名に多く使用される漢字を並べたもの。
「源平藤橘」という昔からの著名な姓(かばね)の四文字で始まる。
「惣善孫彦」からつづく32文字を見ると、たしかに江戸時代の人名によく見られる漢字である。
最後は「左衛門 殿 様」で終っている。

ちなみに当家の江戸時代の当主の名には、彦、伊、権の文字がつく三種類の名がある。一つの名を代々襲名する家もあるようだが、三種類あると名前だけである程度の時代を推定できるので、ありがたい。




岩 西久保 金地院
神明 烏森 増上寺
三田 春日 魚籃 太子
堂 日本榎 品川 庚申
堂 東海寺 末之方は
永田 馬場 山王 溜池


この文書は、『江戸方角』と呼ばれる手習いの教科書のようなもの(の一部)。内容は、見ての通り、江戸の地名名所尽で、地名の羅列である。
江戸時代に子どもたちが手習塾で師匠に付いて、声を出して読みながら、字を書き写し、文字を学んだもの。

『NHK趣味悠々 古文書を読んでみよう』(2001年)にも、江戸に近い世田谷太子堂村に保存されていた『江戸方角』が載せられている。安政のころのものという。「世田谷地域の子供たちが、将来江戸とのかかわりで暮らしを立てるようになることを予想して学ばせていたのではないか」との説明もあった。

ここに掲載のものは、武蔵国のだいぶ外れの村に伝えられたものである。遠距離なので江戸に野菜を売りに行くようなことはなかったと思うが、そういった実利だけで人が動くわけでもないのだろう。遠隔地の人々も、江戸やさまざまな地方の地名への関心はあったと思われる。
たとえば、芝居や物語や俗謡などに出てくる江戸の名所や地名。旅の人たちが聞かせてくれる話に出てくる地名。
大人になってから名主の代理として江戸に出府するときのために、というのは実利だが、目的地を単に往復するだけでなく、見聞を広めるための行動もあり、帰村した者から土産話などを村人はよく聞いた。
さまざまな土地やそこの神仏の話などに、人々の関心が広がって行った時代だった。
-------
以上は、以前「古文書倶楽部」というブログに書いたものを今回修正して載せた。そのブログは続かなかった。8年前のことだった。

旗本・中野家は、江戸時代にわが先祖が名主として仕えた殿様である。
中野家の総石高は、1275石6斗5升1勺(文政六年十一月「相渡置一札の事」による)。
領地(知行)は、武州に五ヶ村、上総に一村、伊豆に二ヶ村、計8ヶ村があった。

中野家の由来を調べてみると、戦国時代の三河の井伊家の分家であり、分家の幾つかが「上の家」「中の家」と呼ばれ、その「中の家」が中野家を称したのが始まりらしい、というのが当初の知識だった。

『歴史と旅・姓氏総覧』では次のようにいう。三河時代は分家の中でも有力なほうだったようだ。
「中野氏 三河【井伊氏族】井伊系図に「井伊忠直の子直方、中野組」とあるのより起こる。直方又直房ともある。此の末流と称する中野氏は、寛政系譜に一家を収めている。家紋 丸に鳩酸草、鷹の羽八枚草。」

ネット情報では、「家紋world 姓氏と家紋」というサイトに、短い解説がある。
「家紋は 丸に酢漿草
井伊忠直(井伊直政六世の祖)の子直方が中野を称した。中野重弘・弘吉の二代は但馬や石見の銀鉱に貢献した。」
http://www.harimaya.com/o_kamon1/hatamoto/hm_na.html

家紋の酢漿草(かたばみ)は鳩酸草と同じである。石見銀山については思い当るふしがある。わが先祖の道中記によれば、安芸の宮島から北へ、三次のあたりまで他村のグループと同行、同宿だったが、三次から先は、他村のグループはまっすぐ出雲大社へ向い、先祖たちは石見銀山へ迂回した。石見銀山は中野家の先祖と縁のあることを知っていて、土産話にするためなどの目的のための迂回ではないかと思われる。他村のグループは、中野領の村ではない。

中野家の当主の名には、元禄のころの伝右衛門のあとは、左兵衛、勘右衛門、主殿、左京、左兵衛、文吉、吉兵、吉兵衛、鉄太郎、七太夫、鉄之進、三郎、不染、内記、鐘吉、鐘次郎、鐘七郎といった名が見える。(同一人の別名を含む)。

総石高は、1275石余と書いたが、そのうち武州の五ヶ村は次の通り(カッコ内は石高)。
 幡羅郡 原之郷村(369)、
 榛沢郡 東大沼村(138)、
 同郡  新寄居村(72)、
 男衾郡 富田村(58)、
 同郡  小江川村(72)。
五ヶ村はみな相給で、これらの村には、中野家と全く同じ石高の内藤家の知行地が存在する。内藤家のほうが他にもより広い領地があり、規模は大きいようだ。
他の三ヶ村は、
 上総国望陀郡 長須賀村 (300石、天保9年八ヶ村皆済目録) 現在は木更津市の中心部。
 伊豆国田方郡 北条寺家村(146 計算値)
     〃  中嶋村(118 計算値)

中野家の事績は詳細は不明だが、江戸中期には、小普請役などに就いた。内藤家との養子縁組の記録もある。
幕末の長州征伐のときは、将軍家茂につき従い、小姓の世話役などをした(以上は村文書による)。
戊辰戦争の後は、田安家に従って駿府へ下ったが、その後の消息は不明。これは、村の入会地を廻る新政府との訴訟事で、中野氏の証言を得るべく村で手をつくして調べたときの調査結果である。それ以上の情報をを得ることはできなかった。

<雑記 同姓の人々>
上総の手賀沼の北の、湖北村に、中野家という豪農があったという。
「中野家は治右衛門あるいは酒屋と称され農業と酒造業を営む豪農で、江戸時代、代々旗本内藤領の名主を務めた。」 http://www.geocities.jp/abikokeikan/nakabyou/page2.html
「湖北」とあるので三河の浜名湖の北かと思ったが、手賀沼である。旗本の中野家とは無関係。

幕末の老中 井伊直弼の兄・井伊中顕が養子に入った中野家は、井伊家の家老であるという。旗本ではない。

蛇足だが、Wikipediaによると、「中野清茂」という人は、「江戸時代後期の9000石旗本」であり、「父は300俵取りの徒頭」だったというが、非常に疑わしい。その根拠はテレビドラマや小説だけなのだろうか。徒頭とは足軽(武士身分ではない)の1つ上の身分にすぎず、9000石は旗本ランキング(http://homepage3.nifty.com/ksatake/libinde.html)では第2位に入ることになり、ありえない話だ。数年前に「旗本中野家」をネットで調べたときには、こんな情報は存在しなかった。
(補足 300石の旗本とは領地全体の評価高が米300石であり、年貢4割として米なら300俵が全収入である。下級武士ではなく「300俵取り」とは言わないのではないか)

近世研究のために、江戸時代の前後の、戦国末期や明治時代のことも勉強し直さないといけないと思い、戦国末期については、藤木久志の本を読んでみたことがある。
最初は岩波新書の『刀狩り』。これは江戸時代のことも多く触れられている。

この本によって、今まで、庶民と刀について間違った認識を持っていたことがわかった。
その間違いとは、豊臣秀吉による「刀狩り」によって、農民は刀を全て没収され、江戸時代は、一部の名主などが例外的に「苗字帯刀」を許された場合に、装飾品ないし宝物として刀を所有し、今日に至ったというもの。その程度の知識だった。

事実は、秀吉の刀狩りは兵農分離に主眼があり、実際の没収は限定的なものだったらしい。江戸時代も多くの農民は刀を所有したが、一揆などでは使用しないというルールがあった。旅や外出のときに、守り刀として脇差し一本を腰に差すのは、普通のことだった。明治以後は刀を差して公道は歩けなくなったが、風呂敷等に包んで荷物として運ぶことは問題ない。戦後の所謂「マッカーサーの刀狩り」では、全国から500万本以上の刀が取り上げられたが、時代による生活慣習の変化で国民の抵抗はなかったという。これは歴史上最大規模の刀狩りだった。ということらしい。

帯刀とは、武士のように大小二本を腰に差すことを言い、一本差しただけでは「帯刀」とは言わないそうだ。二本差しは武士だけの特権である。
そういえば、任侠映画で番場の忠太郎も沓掛の時次郎も、長ドス一本だけを差していた。

庶民にとっての刀は、なんといっても「守り刀」であったのだろうと思う。
臨終のあと、遺体の傍らに守り刀を置く慣習は、今でも残っているところには残っている。
床の間に飾る刀は、そばで就寝する者の守り刀でもあったろうし、我が家も昭和の父まではそうしていた。

さて、藤木氏の他の本で印象に残ってゐることは、
戦国時代は日本中が戦乱の時代で、近隣の村どうしでの武力衝突はひんぱんにあった。死人が出たときは、悪無限の報復の連鎖を避けるために、他方の村から一人を選んでその首を差し出して事態を収めるというルールができていった。その一人をどうやって選ぶかというと、村では予め他所から来た牢人(浪人)を幾人か養っていて、働かなくても食事などを与え、いざというときに差し出したとのこと。急な賦役の人足を差し出さなければならないときも、こうした牢人を差し出したが、「ものぐさ太郎」の話はそうした事実の反映だろうという。また、村の老人の一人が、自分の首を差し出し、子孫を末代まで村役人として待遇することを条件にすることもあったという。江戸時代の名主の中には、そのような経緯で名主になった家もあったことだろう。
戦乱の時代は早く終らせたいという人々の思いは、江戸時代には特に強くなっていったものと思う。

藤木氏の中世史に関するある本で、序文の冒頭を、柳田国男の引用で始めているものがあった。近世史の専門家になぜそれができないのだろうと思った。

このブログではどんなことを書くことになるだろうか。

実際の近世当時の古文書を読み解きながら、庶民生活の一端を知ること。

古文書の整理方法。パソコンを使用した画像管理、テキスト管理。翻刻文の表記法や、多量の文書の分類法、勉強法など。

明治以来、流布されてきた奇妙な近世像を一掃すること。
「お江戸でござる」ではないが、「今日の間違い」と題して、落語などをとりあげ、誇張その他の原因で事実としてありえない話の部分をチェックしてみるなど。

その他

……といったところだろうか。





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