『江戸方角』

2016.09.10 Saturday◇古文書〜手習Edit


岩 西久保 金地院
神明 烏森 増上寺
三田 春日 魚籃 太子
堂 日本榎 品川 庚申
堂 東海寺 末之方は
永田 馬場 山王 溜池


この文書は、『江戸方角』と呼ばれる手習いの教科書のようなもの(の一部)。内容は、見ての通り、江戸の地名名所尽で、地名の羅列である。
江戸時代に子どもたちが手習塾で師匠に付いて、声を出して読みながら、字を書き写し、文字を学んだもの。

『NHK趣味悠々 古文書を読んでみよう』(2001年)にも、江戸に近い世田谷太子堂村に保存されていた『江戸方角』が載せられている。安政のころのものという。「世田谷地域の子供たちが、将来江戸とのかかわりで暮らしを立てるようになることを予想して学ばせていたのではないか」との説明もあった。

ここに掲載のものは、武蔵国のだいぶ外れの村に伝えられたものである。遠距離なので江戸に野菜を売りに行くようなことはなかったと思うが、そういった実利だけで人が動くわけでもないのだろう。遠隔地の人々も、江戸やさまざまな地方の地名への関心はあったと思われる。
たとえば、芝居や物語や俗謡などに出てくる江戸の名所や地名。旅の人たちが聞かせてくれる話に出てくる地名。
大人になってから名主の代理として江戸に出府するときのために、というのは実利だが、目的地を単に往復するだけでなく、見聞を広めるための行動もあり、帰村した者から土産話などを村人はよく聞いた。
さまざまな土地やそこの神仏の話などに、人々の関心が広がって行った時代だった。
-------
以上は、以前「古文書倶楽部」というブログに書いたものを今回修正して載せた。そのブログは続かなかった。8年前のことだった。

旗本・中野家のこと

2016.09.07 Wednesday◇近世史Edit
旗本・中野家は、江戸時代にわが先祖が名主として仕えた殿様である。
中野家の総石高は、1275石6斗5升1勺(文政六年十一月「相渡置一札の事」による)。
領地(知行)は、武州に五ヶ村、上総に一村、伊豆に二ヶ村、計8ヶ村があった。

中野家の由来を調べてみると、戦国時代の三河の井伊家の分家であり、分家の幾つかが「上の家」「中の家」と呼ばれ、その「中の家」が中野家を称したのが始まりらしい、というのが当初の知識だった。

『歴史と旅・姓氏総覧』では次のようにいう。三河時代は分家の中でも有力なほうだったようだ。
「中野氏 三河【井伊氏族】井伊系図に「井伊忠直の子直方、中野組」とあるのより起こる。直方又直房ともある。此の末流と称する中野氏は、寛政系譜に一家を収めている。家紋 丸に鳩酸草、鷹の羽八枚草。」

ネット情報では、「家紋world 姓氏と家紋」というサイトに、短い解説がある。
「家紋は 丸に酢漿草
井伊忠直(井伊直政六世の祖)の子直方が中野を称した。中野重弘・弘吉の二代は但馬や石見の銀鉱に貢献した。」
http://www.harimaya.com/o_kamon1/hatamoto/hm_na.html

家紋の酢漿草(かたばみ)は鳩酸草と同じである。石見銀山については思い当るふしがある。わが先祖の道中記によれば、安芸の宮島から北へ、三次のあたりまで他村のグループと同行、同宿だったが、三次から先は、他村のグループはまっすぐ出雲大社へ向い、先祖たちは石見銀山へ迂回した。石見銀山は中野家の先祖と縁のあることを知っていて、土産話にするためなどの目的のための迂回ではないかと思われる。他村のグループは、中野領の村ではない。

中野家の当主の名には、元禄のころの伝右衛門のあとは、左兵衛、勘右衛門、主殿、左京、左兵衛、文吉、吉兵、吉兵衛、鉄太郎、七太夫、鉄之進、三郎、不染、内記、鐘吉、鐘次郎、鐘七郎といった名が見える。(同一人の別名を含む)。

総石高は、1275石余と書いたが、そのうち武州の五ヶ村は次の通り(カッコ内は石高)。
 幡羅郡 原之郷村(369)、
 榛沢郡 東大沼村(138)、
 同郡  新寄居村(72)、
 男衾郡 富田村(58)、
 同郡  小江川村(72)。
五ヶ村はみな相給で、これらの村には、中野家と全く同じ石高の内藤家の知行地が存在する。内藤家のほうが他にもより広い領地があり、規模は大きいようだ。
他の三ヶ村は、
 上総国望陀郡 長須賀村 (300石、天保9年八ヶ村皆済目録) 現在は木更津市の中心部。
 伊豆国田方郡 北条寺家村(146 計算値)
     〃  中嶋村(118 計算値)

中野家の事績は詳細は不明だが、江戸中期には、小普請役などに就いた。内藤家との養子縁組の記録もある。
幕末の長州征伐のときは、将軍家茂につき従い、小姓の世話役などをした(以上は村文書による)。
戊辰戦争の後は、田安家に従って駿府へ下ったが、その後の消息は不明。これは、村の入会地を廻る新政府との訴訟事で、中野氏の証言を得るべく村で手をつくして調べたときの調査結果である。それ以上の情報をを得ることはできなかった。

<雑記 同姓の人々>
上総の手賀沼の北の、湖北村に、中野家という豪農があったという。
「中野家は治右衛門あるいは酒屋と称され農業と酒造業を営む豪農で、江戸時代、代々旗本内藤領の名主を務めた。」 http://www.geocities.jp/abikokeikan/nakabyou/page2.html
「湖北」とあるので三河の浜名湖の北かと思ったが、手賀沼である。旗本の中野家とは無関係。

幕末の老中 井伊直弼の兄・井伊中顕が養子に入った中野家は、井伊家の家老であるという。旗本ではない。

蛇足だが、Wikipediaによると、「中野清茂」という人は、「江戸時代後期の9000石旗本」であり、「父は300俵取りの徒頭」だったというが、非常に疑わしい。その根拠はテレビドラマや小説だけなのだろうか。徒頭とは足軽(武士身分ではない)の1つ上の身分にすぎず、9000石は旗本ランキング(http://homepage3.nifty.com/ksatake/libinde.html)では第2位に入ることになり、ありえない話だ。数年前に「旗本中野家」をネットで調べたときには、こんな情報は存在しなかった。
(補足 300石の旗本とは領地全体の評価高が米300石であり、年貢4割として米なら300俵が全収入である。下級武士ではなく「300俵取り」とは言わないのではないか)

帯刀について

2016.09.06 Tuesday◇参考書Edit
近世研究のために、江戸時代の前後の、戦国末期や明治時代のことも勉強し直さないといけないと思い、戦国末期については、藤木久志の本を読んでみたことがある。
最初は岩波新書の『刀狩り』。これは江戸時代のことも多く触れられている。

この本によって、今まで、庶民と刀について間違った認識を持っていたことがわかった。
その間違いとは、豊臣秀吉による「刀狩り」によって、農民は刀を全て没収され、江戸時代は、一部の名主などが例外的に「苗字帯刀」を許された場合に、装飾品ないし宝物として刀を所有し、今日に至ったというもの。その程度の知識だった。

事実は、秀吉の刀狩りは兵農分離に主眼があり、実際の没収は限定的なものだったらしい。江戸時代も多くの農民は刀を所有したが、一揆などでは使用しないというルールがあった。旅や外出のときに、守り刀として脇差し一本を腰に差すのは、普通のことだった。明治以後は刀を差して公道は歩けなくなったが、風呂敷等に包んで荷物として運ぶことは問題ない。戦後の所謂「マッカーサーの刀狩り」では、全国から500万本以上の刀が取り上げられたが、時代による生活慣習の変化で国民の抵抗はなかったという。これは歴史上最大規模の刀狩りだった。ということらしい。

帯刀とは、武士のように大小二本を腰に差すことを言い、一本差しただけでは「帯刀」とは言わないそうだ。二本差しは武士だけの特権である。
そういえば、任侠映画で番場の忠太郎も沓掛の時次郎も、長ドス一本だけを差していた。

庶民にとっての刀は、なんといっても「守り刀」であったのだろうと思う。
臨終のあと、遺体の傍らに守り刀を置く慣習は、今でも残っているところには残っている。
床の間に飾る刀は、そばで就寝する者の守り刀でもあったろうし、我が家も昭和の父まではそうしていた。

さて、藤木氏の他の本で印象に残ってゐることは、
戦国時代は日本中が戦乱の時代で、近隣の村どうしでの武力衝突はひんぱんにあった。死人が出たときは、悪無限の報復の連鎖を避けるために、他方の村から一人を選んでその首を差し出して事態を収めるというルールができていった。その一人をどうやって選ぶかというと、村では予め他所から来た牢人(浪人)を幾人か養っていて、働かなくても食事などを与え、いざというときに差し出したとのこと。急な賦役の人足を差し出さなければならないときも、こうした牢人を差し出したが、「ものぐさ太郎」の話はそうした事実の反映だろうという。また、村の老人の一人が、自分の首を差し出し、子孫を末代まで村役人として待遇することを条件にすることもあったという。江戸時代の名主の中には、そのような経緯で名主になった家もあったことだろう。
戦乱の時代は早く終らせたいという人々の思いは、江戸時代には特に強くなっていったものと思う。

藤木氏の中世史に関するある本で、序文の冒頭を、柳田国男の引用で始めているものがあった。近世史の専門家になぜそれができないのだろうと思った。

このブログではどんなことを書くことになるだろうか。

実際の近世当時の古文書を読み解きながら、庶民生活の一端を知ること。

古文書の整理方法。パソコンを使用した画像管理、テキスト管理。翻刻文の表記法や、多量の文書の分類法、勉強法など。

明治以来、流布されてきた奇妙な近世像を一掃すること。
「お江戸でござる」ではないが、「今日の間違い」と題して、落語などをとりあげ、誇張その他の原因で事実としてありえない話の部分をチェックしてみるなど。

その他

……といったところだろうか。




江戸常識の嘘を斬る

2016.07.05 Tuesday◇参考書Edit
近世史ないしは江戸期の古文書などについてのブログを始めるにあたり、ブログの題名について大変な試行錯誤があったのだが、とりあえず「小江戸古文書会」とした。「小江戸」とは、ここでは、特定の地方都市のことではなく、江戸時代の村の意味とする。大正月に対する小正月のような意味である。
【訂正 やはり小江戸は誤解されやすいので、外神田などの地名を参考に「外江戸古文書会」とした。】

秋田書店の『歴史と旅』1997年1月号(特集:江戸常識の嘘を斬る)を読んで、もっと江戸時代の村のことを学ばねばならないと思ったことがあった。この特集は、それ以前にときどきあちこちで見聞きすることのあったさまざまのことがらを総まとめにしてくれたもので、よくよく熟読したものだったが、それ以前の知識として最も勉強になっていたのは、NHKテレビのコメディー『お江戸でござる』における杉浦日向子の解説(「おもしろ江戸ばなし」)だった。お江戸でござるの農村版はできないものかと思っていた。
『お江戸でござる』の放送開始は1995年3月30日。

『歴史と旅』1997年1月号は前年の12月に読んだわけだが、特集記事のなかで最も注目したのは、佐藤常雄『江戸の貧農史観の再検討』だった。8ページほどの記事に今回ざっと目を通してみたが、同氏の著書『貧農史観を見直す』(講談社現代新書)についての記述は確認できなかった。しかし直後にこの本も読んだ記憶があるのは、同じテーマのものを読み漁ったときに知ったのだろう。同書は1995年8月の初版、手もとにあるのは1996年2月の第二刷である。半年で二刷ということはよく読まれたということだろう。同書は大石慎三郎編「新書江戸時代」全5冊のうちの1つ。
農家の年貢の、収入に対する実質の割合は8パーセントほどだと研究した人がいると読んだのはこの本だった。この本について若干の不満があるとすると、本の冒頭に紹介された2つのエピソード(伊達藩の子供の親権の認定法、蜂須賀家の先祖探し)が、大石慎三郎の著作『江戸時代』(中公新書)と類似する点だけだろう。
佐藤氏の専攻は「日本農業史」。日本の近世のことを学ぶには、「日本近世史」の専門家の本はあまり参考にならないことがわかるまでには、だいぶ年月を要したが、法制史とか商業史とかの各分野のそれぞれの先生のものを読まなければならない。


selected entries

categories

archives

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM